「城ノ内探偵事務所」カテゴリー
『情報を制する者は世界を制す』
世界はどうだか知らないが、この街を制しているのは──きっと『彼』だ。
企業秘密だけどね
――あかりちゃん、僕は友達が多いんだよ
ちょっと変わった探偵城ノ内と事務員あかりのドタバタ調査録。
小説家になろう と pixiv でも公開中ですが、こちらでも公開しました。
#05 ペット捜索
2014/10/04 00:36 □ 城ノ内探偵事務所
午後三時。小さく、ドアが叩かれた。
「はぁい」
休憩しよう、と上司がキッチンスペースへ引っ込んだところだったので、事務所には自分しかいない。慌ててドアに駆け寄る。
「…………」
開いたドアの向こうには、緊張した面持ちの小さな男の子がひとり。
「たんていさんですか?」
「……いや、私は違います」
少しがっかりしたような、ほっとしたような複雑な表情をした男の子は見たところ五歳くらい。幼稚園の制服に幼稚園の鞄。
私に探偵かと聞くくらいだから、上司の知り合いというわけではなさそうだ。
「どうしたの? 探偵さんに何かご用?」
しゃがみ込んで視線を合わせ、努めて優しく問いかける。
涙を堪えるためか一度口をへの字に曲げて、絞り出すように彼は言った。
「……チャコをさがしてほしいんです」
「チャコ?」
首を傾げると、鞄の中から取り出した写真を渡された。映っているのは茶トラの子猫。
「おとといからかえってこないの」
「そっか。それは心配だね」
――ペット捜索の依頼? 城ノ内さん出来るのかな。
とにかく、まずは親御さんに連絡したほうがいいだろう。
「お父さんかお母さんは? ひとりで来たの?」
「うん」
「おうちの電話番号わかる?」
男の子が黙って首を振るのと同時、
「わかるよ」
頭の上から、声が降ってきた。
驚いて振り返る。いつの間にか真後ろに立っていた上司が、腕組みして笑いながらこちらを見下ろしていた。
思わず立ち上がって尋ねる。
「知ってる子なんですか?」
「いや。でも、見覚えはあるかな。三咲幼稚園の子だよね?」
優しい声の問いかけに、幼児は静かに頷いた。
先ほどの私と同様に、しゃがみ込んで上司は続ける。
「お名前言えるかな?」
「はやしゆうとです」
「ゆうとくんかー。ちょっと待っててね」
彼の頭を軽く撫で、立ち上がって事務所へ戻る上司は、すれ違いざま、
「友達に先生居るから連絡取ってみるよ。キッチンにココア入れてあるから相手してて」
小さな声でそう言い、――そして最後まで、猫のことには言及しなかった。
*
林悠人の母親がやって来たのはそれから一時間後だった。
上司がドアを開けると同時、顔を確認する間もなく、申し訳ありません! と深く頭を下げる。
「どうぞ。そちらです」
「あ、おかあさん」
応接スペースから覗く顔に安堵の表情を見せた母親は、次いで、怒り顔を作って我が子に向き合った。
「なんでこんなところに居るの? 心配したんだよ!」
いつもの時間に帰ってこず、幼稚園や友達の家に電話して探していたらしい。もう少し見つからなければ警察へ行くつもりだったと。
「ほら、帰るよ」
「おかあさん、チャコかえってこないの」
「……元気ないと思ったら。それでここまで来たの?」
「そうみたいですね。探してほしいって言ってました。いなくなっちゃったんですか?」
世間話程度に聞いてみる。母親は、はい、と短く答え、
「あ、でも、うちで飼ってるわけじゃないんです。一ヶ月くらい前から近くの公園に住みついてて、パンとかあげてたみたいで」
慌ててそう付け加えた。言外をくみとると、『だから捜索のお金は払えません』。セールスのつもりはなかったんだけど、彼女からしてみれば私も探偵事務所の人間だ。この反応は仕方ないのだろう。
「たんていさん、おねがい。チャコをさがしてください」
悠人くんが、今度は上司に向かって懇願する。
「こら、何言って――」
母親が黙らせようとするのを制止し、
「悠人くん、それはお仕事のお話かな?」
微笑みを絶やさないまま、まっすぐに彼を見据えて、上司が問うた。
「うん」
「お仕事なら、お金が一杯いるよ?」
「ぼくのおこづかいぜんぶあげます。おねがいします」
鞄の中を探り、差し出された小さな巾着袋。音だけで、中身は小銭ばかりだとわかった。
「ごめんね。全然足りないんだ」
優しい声で突きつける、冷たい現実。
「…………」
泣きそうな表情に、胸が痛くなる。
こんなに一生懸命なんだから、引き受けてあげればいいのに。あなたならお友達の力でどうにか出来るんじゃないのか。ついそう思ってしまうけれど、自制する。それは絶対に、口に出してはいけない言葉だ。
友達だろうがなんだろうが、彼は力を持っていて、私は持っていない。痛いほど自覚する。何も出来ないくせに、他人に対する要望だけは一丁前か。他力本願は自分のほうだ。
何も言えずに、ただこの沈黙が過ぎ去るのを待つ。
ずいぶん長く感じたけれど、それは多分、時間にしてほんの数秒。
「大丈夫、すぐ見つかるよ。もう少し自分で頑張ってごらん」
くすりと笑って、上司が悠人くんの頭を撫でた。
「お金で他人をあてにするのは最後の手段。行方を知りたいなら君にももっと出来ることがあるよ」
「ぼくにもできること?」
「猫探しのポスターなら、そのお金でも作れるんじゃないかな?」
その言葉で、彼の顔がパッと明るくなる。
「やってみる!」
「─」
今日初めて見るその笑顔に、私は思わず彼の母親と顔を見合わせる。
「ちなみに、」
つられるように笑いあっていると、不意に振り返った上司が手のひらでこちらを示した。
次の瞬間、
「――そこのお姉さんがそういうの得意なんだ」
私は、幼児の懇願と巾着袋の標的がこちらに移行したことを認識した。
*
「おはよう。あかりちゃん、昨日林さん来たよ」
五月二十七日。休日明けの朝、上司からまず最初に言われたのはこんなセリフだった。
「お世話になりました、ってさ」
『どんな結果になっても受け入れること』
ポスターの完成時、上司は悠人くんを諭すようにそう言った。
事務所で埃を被っていたラミネーターを使わせてもらい、出来上がった二枚のポスター。
公園を中心に貼れ、という上司のアドバイスに従って、公園内部の掲示板と公園の入り口にあるコンビニに、許可を取って貼らせてもらった。
写真を加工し、なんとか目立つように作り上げたポスターは結構人の目を引いたらしい。
チャコの行方がわかったのは、ポスターを貼った翌々日のことだった。
連絡先は私の携帯。連絡をくれた人は三十代の女性だった。
探しているのが子供だと知ると、話がしたいと家に招かれた。彼女の家は公園のすぐ近く。
迎えに行くと、母親は急に用事が入ったらしく、大変申し訳ないけれど、と悠人くんを託された。
『大丈夫、すぐ見つかるよ』
――知ってたんだろうな、城ノ内さん。
「ごめんね、知らなかったの」
その家に、チャコは居た。通されたリビングで、柔らかいタオルに包まれ、小さな寝息を立てている。
高坂さなえと名乗ったその女性は、起こさないよう、静かにチャコに触れた。
彼女は、数年前に病気で仕事を辞め、欲しかった子供も出来なくなった。在宅で仕事はしているものの、旦那さん以外の人とは関わりもほとんどなく、どこかで寂しさを感じていたのかもしれない、と話した。
「この前の夜コンビニに行った時にね、ちょっと気晴らしに公園で缶ジュース飲んだの。そしたら、どこから出てきたのか、この子がね、足にすり寄ってきて、にゃあって鳴いたのよ」
微笑みをたたえたまま、愛おしそうに、その身体を撫でる。猫は起きてはいるのかもしれないが、目を開ける様子はなく、ゴロゴロと気持ち良さそうにのどを鳴らしていた。
「首輪もしてなかったから、うちの子になる? ってね。連れて帰ってきちゃった。ごめんね。ぼくの家の子だったんだね」
申し訳なさそうに、彼女が謝る。
「ううん。ぼくのうち、ねこかえないの」
少し悲しそうに首を振り、
「おばちゃん、チャコたいせつにしてくれる? ぼく、またあいにきてもいい?」
まっすぐに投げかけた質問は、『結果』を受け入れた林悠人の決断だった。
目を丸くした後、高坂さんは、眩しいものを見るように目を細め、もちろん、と短く答えた。
「悠人くん、すっかり元通りで元気に公園駆け回ってるってさ」
「そうですか。よかったです」
こちらも笑って答える。悠人くんも高坂さんもチャコも、みんな幸せな結末なら及第点だろう。――おそらくすべて、彼の予想通りの結果だろうけど。
「全部知ってたんですね、城ノ内さん」
「まぁ、高坂さんも友達だからね」
「それなら教えてあげればいいのに」
「僕のネットワークは商売道具だからね。安売りはしない主義なんだ」
本気なのか冗談なのか。彼はおどけたような仕草で笑った。
「それにこっちのほうが、達成感は味わえたでしょ? あのくらいの子にはそれも必要なことだよ」
「はい、まぁ、そうかもです」
「あ、でさ、これ」
思い出したようにそう言いながら、彼は棚の上に置かれた紙袋を手にした。
「はい、これは君の報酬」
「……?」
「受け取れないって言ったんだけど、君に渡してくれって」
「あー……」
覗き込んだ紙袋の中には、大きな菓子折が納まっていた。
「気、使わせちゃいましたかね」
「ま、いいんじゃない? 感謝してたよ」
なんだかくすぐったいような気分で紙袋を受け取ると、
「よく出来ました」
悠人くんで癖になったのか、上司が頭を撫でてきた。
「……十時になったら、これでお茶にしましょうか。紅茶でよければ、今日は私が淹れますよ」
「君の報酬なのに?」
「この重さですよ。ひとりじゃどのみち食べ切れませんよ」
「それじゃあ、ご相伴にあずかろうかな」
「はい。じゃあ今日も一日よろしくお願いします」
「ん、よろしくね」
上司の笑顔で、今日も一日が始まる。
相容れなさは消えないけれど、今までよりもう少しだけ、彼を好きになれそうな気がしていた。
#06 適性
2014/10/04 00:39 □ 城ノ内探偵事務所
昼休み明けの午後一番、ボールペンのインクが切れたため、ちょっと隣の建物にある文具屋に行っている間に電話が鳴ったらしい。事務所のドアを開くと上司がまた私の机のど真ん前に立っていた。
いい加減、一回キレておいた方がいいんだろうか。
一瞬そんな考えが浮かんだが、今回は自分が居なかったんだから、さすがに許容すべきだと思い直した。まぁ、私が事務所に戻って上司の真後ろに立った段階で気づいて退いてほしいと考えるくらいは贅沢ではないと思うんだけれど。
「あぁ、はい。いえ、報告書は今日速達で発送する予定ですが。今日ですか? わざわざ来ていただかなくても……はい、まぁ……では十四時半に。お待ちしております」
私がまた彼の腰を叩くかどうかを悩む前に、上司は電話を置いてくれた。
珍しく疲れた様子でため息をつく。
「あぁ、ごめん。また邪魔してたね」
「いえ。ボールペン買ってきましたよ。これ、レシートとお釣り。箱買いして備品棚に入れてありますので」
「ありがとう。ご苦労さま」
一旦自席へ戻り、受け取ったものを机に仕舞うと、
「……エアコンつけようか。人来るし、外暑かったでしょ?」
そう言って、彼は入り口へ向かった。
「はい。それ以前に、この部屋空気淀んでますよ」
この事務所は陽当たりが悪いうえに風通しも悪く、窓を開けてもあまり風は入って来ない。昼を過ぎ、気温が上がり始めてそろそろ不快の域に入りつつあった。
ドアの隣でかすかにパネルを操作する音が聞こえると、数秒のタイムラグの後、心地よい風が髪を撫で始めた。
異常に気づいたのは約十五分後。
「……あの、城ノ内さん」
「ん? データおかしかった?」
「いや、そうじゃないんですけど……なんか寒くないですか?」
「そう?」
携帯を眺めたまま、彼が答える。気のない返事は来客に備えてずいぶん早く羽織った上着の力ゆえか。薄着で風の直撃を受ける部下の気持ちなどわかるまい。
「……設定温度上げていいですか?」
たまらず立ち上がる。
「いいよ。でもお客さん来るから消さないでね」
「わかりました」
さすがに消す気はなかった。またすぐに空気が淀むのが目に見えていたから。
「……うわ、十八度になってる」
近づいた先には『事務所』とテプラの貼られた操作パネル。そりゃ寒いわけだ、とひとり納得し、上向き三角の表示がついたボタンを連打した。
「……あれ?」
「ん? どうかした?」
「温度が上がらないんです」
「もうちょい強く押してみて。最近反応悪いんだよね」
「……んー」
「……駄目?」
「はい」
「ちょっと貸して」
こちらに近づきながら、彼が言う。その言葉に従って壁に固定された操作パネルから離れると、上司は、ぎゅう、と効果音が付きそうなほど強くボタンを押した。
「……うーん」
「駄目みたいですね」
珍しくむくれた顔で、何度か圧迫を繰り返した上司は、どうしても温度が変わらないことを確認すると、ひとつため息をついた。
「ごめん、あかりちゃん。……今日のところは我慢してくれる? 修理手配しとくから」
「はい。まぁ、仕方ないですね」
「……机移動できないし、困ったね」
電話線と電源の都合上、机の移動は難しい。いや、もちろん移動することは可能だが、理由が一時的なエアコン故障では、それだけの労力を使う気力は湧かなかった。
「まぁ、あったかいお茶でも飲んで我慢しますよ」
「あ、いや、ちょっと待ってね。確か……」
「はい?」
パタパタと小走りでキッチンスペースへ駆け込む上司を目で追う。開け放たれたドアからほんのわずか、生ぬるい空気がなだれ込んできて、私は初めて、耐えきれなくなったらそっちに逃げればいいんだ、と気付いた。
ガサゴソと音はするものの、上司の姿は見えない。そういえば、キッチンの奥にもうひとつドアがあったような……? 自分のおぼろげな記憶を確かめるために、ひょいと音のするほうを覗き込んだ。
記憶は正しかったらしく、ドアの向こうの見知らぬ空間から何かを抱えて出てきた上司と目が合う。
「あったあった。あかりちゃん、これ」
いつもの懐っこい笑顔でその何かを渡される。
「……カーディガン?」
それは、クリーニング上がりのビニールに包まれた黒い男もののカーディガン。
「僕のだからあかりちゃんには大きいだろうけどね。気に入らないかもだけど、風邪引くよりマシでしょ? あとこれも。こっちはなんかのノベルティだったやつだから安っぽいけど」
「……じゃあ、お借りします」
もうひとつ押し付けられたストールを傍らに置き、カーディガンに手を通す。もともとゆったりサイズらしく、袖はやっぱりかなり余った。丈も尻まで完全に隠れる状態で、温度調節としてはちょうどいいけれど、服に着られている、というのはこういうことを言うんじゃないだろうか。
「……」
同じことを考えているのか、上司を見ると、ずいぶん複雑な顔で苦笑していた。
*
「ところであかりちゃん、……ちょっと質問いいかな?」
自席に戻った上司は、一度手にした携帯を、意を決したように机に置くと、何故かとても言いづらそうに口を開いた。その様子に違和感を覚え、何か深刻な話なのかと、パソコンから目を離して向き直る。
「どうぞ? なんですか、改まって」
「あかりちゃんてさ、……あー、えっと、……彼氏とかいる?」
「…………は?」
想定外の質問だった。思いっきり顔を歪めた私に、上司が慌てたように付け加える。
「いや! あの、変な意味じゃなくて。業務上必要な確認というかなんというか……」
「……なんですか、それ」
「あー……はは、答えたくなかったらいいよ、ごめん」
「……別に構いませんけど」
業務上必要というのがよくわからないが、まぁ、ここまで言いづらそうにしているんだから、単なる興味本位というわけでもないんだろう。
先ほどのストールをひざ掛け代わりに足にのせながら、努めて冷静に答える。
「そう呼べるような人は今のところ居ませんね」
「結婚願望とかあるほう?」
「んー、そうですね。……夢みたことは、ありました。でも、」
答えながら、純粋だった頃に思いを馳せる。それほど前ではないはずなのに、今となっては遠い昔のよう。
「今はそれもないですね」
「……そか。若いのにもったいない。でも、ま、それならよかった」
ひとり頷きながらの返答に、ほんの一瞬、腹の奥底が沸き立った。
「……なんなんですか、さっきから」
苛立ちを込めて問う。上司にとっては意味のある質問なのかもしれないが、こちらにとっては蚊帳の外のようで、これが不愉快以外のなんだというのか。
「ごめんね。実は、ちょっと手伝ってほしいことがあってさ」
「……手伝い?」
「うん。まぁ、特に何もしなくていいんだけどね。黙って僕の側に居てくれたらそれでいいから」
そう言って、彼は人差し指を自分の口もとに添える。その仕草で、私は、彼の言う『黙って』が『文句を言わずに』の意味ではなく、文字通り『言葉を発さずに』の意味だと理解した。一応、拒否権は確保してくれているらしいが、特に断る理由も見つからない。
「はぁ。まぁ、いいですけど。今日は報告書も簡単なものばっかりですし」
「ありがとう」
こちらに笑顔を向けて短く礼を言うと、ちらりと時計に目をやる。一瞬の視線の冷たさと、また吐き出されるため息。
『わざわざ来ていただかなくても』
電話の時の言葉を思い出す。どうやら今日の来訪者は彼にとってよっぽど会いたくない人物らしい。
重い腰を上げ、壁に掛けられた鏡の前に立つ上司の手には、カーディガンと一緒に持ってきたのか、深い青色のネクタイ。
「珍しいですね。誰が来られるんです?」
面接の時も、今までの来客の時も、上司がネクタイをしているのを見たことはなかった。いつもはラフな襟元が、意外にも慣れた手つきで引き締まっていく。
「…………来たらわかるよ」
「まぁ、別にいいですけどね。誰でも」
もしかして、よっぽど偉い人なんだろうか。
#07 浮気調査
2014/10/04 00:41 □ 城ノ内探偵事務所
午後二時半。入り口のドアから聞こえてきたのは、女性の声だった。
「急にごめんなさいねぇ」
「いらっしゃいませ。わざわざご足労いただきありがとうございます」
仕事用の笑顔で応接スペースに誘導すると、すぐさま事務所に戻ってきた上司は、こちらに向かって大きく手招きする。
応接スペースは事務所の片隅を高めのパーティションで区切っただけのもの。小声ならともかく普通に話していれば向こうにもある程度は聞こえてしまう。
声を出すなと言われたので、とりあえず頷いて返答にする。
――あ、お茶出さなきゃ。
キッチンスペースへ向かおうとする私の腕を、慌てて上司が後ろから掴んだ。低い声が耳元で囁く。
「いい。いらないから」
「……? はい」
「それより早くこっち来て」
応接のほうが寒いからと、自席に置いていたストールを被せられ、珍しく笑顔のない上司に手を引かれる。
――なんだ? なんか焦ってる?
不思議に思いながら応接スペースに着くと、視線と顎で促され、脇に腰掛けた。
気付かれないよう、依頼人のほうを窺う。三十代後半のまだ見たことのない女性。
派手目の顔立ちだが、とても綺麗な人だった。大きく胸の開いた薄手のワンピースが今この場ではただ寒そうに見える。
これが、「招かれざる客」? 特にマナーに厳しそうにも見えない。
「藤井さん。早速ですが、こちらが報告書になります」
「見ていいかしら?」
「どうぞ」
静かに、彼女が封筒を手に取る。昨日、私が作った浮気調査報告書だった。調査対象者は藤井豊。ということは、この女性はその妻である藤井直美夫人なのだろう。
「…………」
食い入るように書類に目を通す夫人のその手が震えている。
「残念ですが、ご主人は同じ会社の女性とお付き合いをされているようです」
「そう、ですか」
書類を手から放すと、ポロポロと涙をこぼし始める藤井夫人。
哀れなその姿に、
――…………?
何故だろう。何か、違和感を覚える。
まるでひとつひとつの仕草や感情を大げさに演じているような、そんな印象。
「ありがとうございます。離婚の決心がつきました」
口元を押さえて、伏し目がちに。
それでいて、私の存在が気になるらしく、こちらにもちらちらと視線を寄こす。
「そうですか。これからの人生に幸多きことを祈っております。傷心のところ申し訳ございませんが、こちらが請求書になります」
「じゃあ、また持ってきます」
「いえ、振込用紙を付けておりますのでわざわざお越しいただかなくても結構ですよ。山崎町のご自宅からここへ来るのは大変でしょう?」
営業用の微笑みを絶やさずに、あくまで事務的に対応する上司にも違和感があった。
やっぱりものすごく嫌がっている。まぁ、その理由はなんとなくわかってきた。
ただ黙って隣にいるだけでいい。それはつまり、私の存在自体が牽制になることを期待しての命令だ。残念ながらそこまでの効果はなかったらしいけれど。
命令通り何も言わず、上司をちらりと流し見る。そろそろ笑顔を保つのが限界に来ている。
「いいえ。城ノ内さん、あなたに会いたいんです」
――一瞬。
聞きたくないセリフで思いっきり険しくなった上司の顔を、私はきっと一生忘れない。
「からかわないでください」
笑顔に戻り、今のセリフを冗談にしようと必死の抵抗を試みるけれど、
「本気ですよ」
そんな努力が通じるはずもなく、彼女は上目遣いで、机の上の彼の手を撫でた。
「――っ」
――なんだこの攻防。
牽制どころか、蚊帳の外からひとり見物してる状態じゃないか。
いや、実は牽制になってるのか? 私がここにいなければ、強引に押し倒されてたりするんだろうか。
助け船を出してやりたい気もするが、しゃべるなと言われているし、そもそも事を荒立てずにどうやって助ければいいのかもわからない。なにせ支払い前のお客様だ。機嫌を損ねるのは避けたい。
どうしようかと考えを巡らせていると、唐突に、――彼の顔から表情が消えた。
――あ、切れた。
何故かそんな風に直感した。キャパシティオーバーだ。今確かに、彼は何かを振り切った。
何かが起こる予感に、息を呑む。
上司は一度目を閉じると、またゆっくりとまぶたを開いた。
「――あかり、下がってなさい」
その声は限りなく優しく、そして限りなく冷たく響く。
いつもと違う呼び方に、思わずビクッとしてしまう。
動揺を押し殺して、とにかく黙ったまま一礼し、応接スペースを後にした。
張り詰めていたのか、パーティションの裏側に立った瞬間、脱力感に襲われる。
カーディガンはもちろん、その上からストールまで羽織っていたのに、思った以上に手足が冷えている。藤井夫人はあの格好でなんであんなに平気な顔でいられるんだと不思議に思うくらいに。
考えてみれば、茶を出さなかったのは儀礼的な歓迎の意を表さないこと以外に、暖を取らせないためでもあったのかもしれない。
「…………」
いきなり解放されたのは何故だったんだろう。結局役に立たないことがわかってお役御免になったということか。なんだか申し訳ない気分になる。
それにしてもどうするつもりだろう。まさか黙って襲われる覚悟をしたわけじゃないだろうけど。
思わず、パーティションの向こうに耳を澄ます。
おそらく私の足音が聞こえなくなったのを確認したのだろう。上司が沈黙を破る。
『失礼。不倫のお誘いは光栄ですが、身重の妻の前でしたい話ではありませんので』
壁越しで多少くぐもってはいたものの、その言葉ははっきりと私の耳に届いた。
「……………」
いつもの笑顔が目に浮かぶような柔らかな声。優しい優しいその口調で、
――今、なんて言った?
『えっ!? 奥様なんですか!? 嘘、だって、この前は居なかったのに』
信じられない、というように彼女が声を上げる。
安心してください、ここにも信じられない人間がひとりいますから。
『数日前から手伝ってもらってるんです。安定期に入ったので』
流暢に、どこまでも流暢に、一片の淀みもなく彼は答える。
『とは言え、申し訳ありません。あまり長くはひとりにしておけないんです。妻はすぐに無理をするので』
『……え、えぇ、じゃあ、私おいとましますわ』
呆然とした声と、双方が立ち上がる衣擦れの音。
『お支払いは振込で結構ですから』
『え、あぁ、そうね。そうします』
『ありがとうございました。気を付けてお帰りください』
笑顔で彼女を見送り事務所に戻ってきた上司は、パーティションの影で固まっている私に気が付いた。
「……あー、あかりちゃん?」
「はい」
「もしかして、聞いちゃった?」
「はい」
「…………ごめんなさい」
「~~~~っ、全部っ、この服渡したときからそのつもりだったんでしょう!」
サイズの合っていない服を着て、さらにストールまで羽織っていれば、実際の体型なんてわからない。つまり、この件は最初から全部計画済みだったのだ。
顔が真っ赤なのが自分でわかる。握りしめた拳は震えが止まらなかった。
涙を堪えた抗議の表情にバツの悪そうな顔をして、
「うん、まぁ」
目をそらして頬を掻いた上司は、短く肯定の言葉を口にした。
「っ、言ってくれれば、協力くらいしたのに……!」
「いや、だって、内容が内容だし、あかりちゃん嫌がるかなって」
「どっちみち嫌なことするなら教えてほしいです!!」
「ごめんって。これからはちゃんと相談するから」
「当たり前……って、ちょっと待って。これからもあるんですか?」
「多分。たまに居るんだよね、ああいうお客さん」
「……付き合ってあげたらいいじゃないですか。離婚するって言ってたし、藤井さん美人でしたよ」
腹いせのように嫌みを言ってやると、うんざりした表情で彼は答えた。
「旦那の浮気で傷心の私に優しくしてーってだけならまだいいんだけどね。ああいうタイプは自分の浮気を棚に上げてる場合がほとんどだよ。あの人は旦那の他に三人いるんだけどね」
――世の中って、こんなに狂ってるのか。
唖然とする私に、上司が苦笑する。
「お茶にしようか。僕が淹れるから」
「あ、今日は私がやります。この部屋寒いので一旦出たいです」
じゃあ一緒にやろっか、と連れだってキッチンスペースへ移動した。
上司が紅茶を淹れている間、茶菓子を用意する。
戸棚の一番端っこに焼き菓子の詰め合わせの箱がある。この前、林さんからもらったものだ。
クッキーとパウンドケーキをいくつか取り出して皿に載せたその時。
「…………あれ?」
「どうかした? あかりちゃん」
目に入ったのは、このキッチンスペースにあるエアコンの操作パネル。
「事務所の操作パネルって――」
それは入り口ドアのすぐ隣にある。毎日目には入っているけれど、触れたのは今日が初めてだった。
だから、違和感を覚えても、そんなものかと思っていた。
「――前からテプラって貼ってありましたっけ?」
「あかりちゃんさ、結婚願望ないって言ってたけど、」
笑ったまま、彼は私の質問をさらりと聞き流す。陶器のポットにたった今沸いたばかりの熱湯を注ぎながら。
「まさか、」
事務所へのドアを開け、入り口へ走る。目的はもちろん、操作パネル。
それに貼られた『真新しい』テプラに爪を立てる。
考えてみればおかしいじゃないか。
それほど広くもないこの事務所。ひとつしかない操作パネルに、どうして『事務所』なんて貼る必要があったのか――
ベリッと音を立て、剥がれたそれの下に現れた文字は――『集中管理中』。
「─!」
集中管理機能のあるエアコンの『子機』に表示される文字。
これが表示されているということはおそらくキッチンスペースにあるものが親機だ。
反応が悪いんじゃない。温度設定はここでは変更出来ないようにしてあったんだ――
計画の始まりは、服を渡した時じゃない。本当はもう一段階前、エアコンの電源を入れた時から、既に始まっていたのだ。
「もし結婚するときは気をつけて。――結構騙されやすいから」
かくして私は、この事務所に所属して二回目のヒステリーを起こすことになる。
#08 友人
2014/10/04 00:44 □ 城ノ内探偵事務所
藤井夫人の一件から一夜。
さすがにあれだけ喧嘩を売られたあとにその本人からなだめられてもそう簡単に機嫌は直らず、昨日はむすっとしたまま過ごしてしまった。上手くやらないといけないのはわかっていても、どうにもおさまりがつかない。
午前九時十五分。切り替えきれずにもやもやを抱えたまま、私は事務所のドアの前にいた。
「……ん?」
ドアノブをひねると、妙な抵抗。
――……鍵? 城ノ内さんまだ来てないのか。
「っと、どこ入れたっけ」
鞄の中から鍵を探し出す。
『あなたを信頼出来る人間と判断しました』
あのセリフは本気だったらしく、初日の帰り際、今となっては見慣れた笑顔で渡された合鍵。それは信頼という名の枷でもあり、複雑な気分になったものの、幸い上司は私より早く来て遅く帰るので使ったことはなかった。
なんとなく緊張しながら鍵を回す。カチャリと小さく、無機質な音がした。
「……おはようございまーす」
誰もいない事務所に、小さく小さく挨拶する。当然返事は返ってこない。その代わり、湿っぽく淀んだ空気が私を出迎えた。
今日はまた暑くなると天気予報で言っていたのを思い出しながら、エアコンの電源を入れる。パネルを見た瞬間、昨日の嫌な記憶に眉間が反応して、落ち着け、と自分をなだめた。
風が髪をかすめていくのを感じてから、自分の椅子に引っ掛けてあったカーディガンに腕を通す。
設定温度を上げても風が当たるのは変わりなく、結局カーディガンは借りたままになっていた。
自分で服を持ってこなかったのは、事務所内でしか必要ないことと、上司への嫌みを込めて。そして正直、いくらサイズが合わなかろうと、嫌な思い出があろうと、商店街で九八十円のたたき売り商品より、高級ブランドタグの付いたカシミヤのホールガーメントのほうが着心地が良かったのだ。……ちっ、金持ちめ。
「……なんか、違和感あるなぁ」
パソコンを立ち上げながら、思わず苦笑する。窓際の席にいつもいる人がいない。ただそれだけの違いなのに、まるで違う場所のようだった。
まずはメールを確認。上司から三件のメールが来ていた。最後の受信時刻は四時十三分。彼の仕事のやり方は未だ色々と謎に包まれているが、なんだかんだでよく働いているようだ。
「……なんだこりゃ」
なんとなく最後のメールを開くと、思わずそんな呟きが漏れた。予測変換のオンパレードなのか、言葉と言葉の繋がりがすごい状態になっている。どうやらさすがの上司も眠かったらしい。
以前の暗号を彷彿とさせるが、日本語であるだけマシか。なんとなく大筋は読み取れた。
――これは城ノ内さんが来てからにしよう。
まずは、昨日の続きから手を付けた。
「…………」
が、キーボードを叩き始めても、なんだか落ち着かない。
「……紅茶でも淹れようかな」
静かなほうが集中出来ないなんて不思議なもんだ。独り言が多いなぁ、なんて、自分でツッコミを入れながら、キッチンスペースへ向かった。
*
そこで見つけたのは、誰かの足。
「─っ、」
一瞬、身体が跳ねた。
キッチンスペースの奥の部屋。中途半端に開いたドアの影から、ソファに乗った足が見えていた。もちろん、血まみれになった死体の一部なんぞではなく、生きた人間にくっついた状態での発見だ。
中を覗き込むと、狭いからか事務所よりさらに薄暗い。物置兼仮眠室といったところか。物の溢れかえった中にギリギリ横になれるくらいのソファ。そしてその上で、上司が安らかな寝息を立てていた。
「……なんだ。居たのか」
眠りは深いようで、こちらの呟きにもまったくの無反応だった。
「…………」
ふと湧き上がったその衝動を無理矢理抑えつけて、小さく深呼吸。
「……城ノ内さん、起きてください。もう朝ですよ」
無反応。
「城ノ内さん、起きてくださいってば」
無反応。
「起きないとどうなっても知りませんよ?」
無反応。
頼むから早く起きて。――この衝動を抑えきれなくなる前に。
「……城ノ内さん?」
呼びかけながら、彼の額に手をやる。無反応な彼の代わりに、さらりと前髪が私の指を撫でた。
起きているときよりさらに幼い、子供みたいな寝顔。穏やかで無防備なその寝顔――
「……っ」
息が詰まる。自分の心臓が耳元へ来たみたいにうるさい。
もう一度、前髪に指を絡ませる。
――何、しようとしてるんだ。
息を殺して、ほんの少しだけ汗ばんだその額に触れた。
まだ、反応はない。自分を止めるきっかけが欲しいのに、阻んでくれるものは何もない。
「…………」
額の指はそのままに、もう片方の手で、ポケットの水性サインペンを取り出す。
あぁ、せめてここにあるのが油性ペンだったなら、もう少し良心が咎めてくれただろうに!
自分で自分を止められない。とにかく昨日の腹いせがしたくて仕方ない。
震える手で、ペン先を彼の額に向ける。
肉とか書いたら、城ノ内さん、さすがに怒るだろうか?
復讐の刃が彼の額に届く寸前、だった。
「─」
突然、彼の枕元で起こった振動音に、我に返る。
携帯の着信。マナーモードになっているのか、バイブのみで着信音は流れなかった。
「……『徹(とおる)』?」
画面上に表示されている名前を読み上げる。『友達』のひとりだろうか。
「城ノ内さん、お電話ですよー」
声を掛けても、手を叩いてみても、上司の肩を叩いてみても、揺さぶってみても。そこまでやっても彼は起きる気配すらなく、三十秒後、振動音は途切れた。
「…………」
お手上げだ。諦めよう。そのうち起きてくるだろうと、ティバッグの紅茶を淹れて一旦自席へ戻った。
が。
――気になる。
振動が止むことはなく、一分と空けずに着信は続いた。
音は出ていなくても、振動が気になって仕方ない。
「もう、うっとうしいなぁ」
再び眠り姫もとい上司の元へ戻り、電話に出てみることにする。
部屋に戻ると狭い空間だから余計なのか、事務所で聞くのと比べて振動音はずいぶんと大きい。
「脳の異常とかじゃないよな、これ」
相変わらず無反応の上司に、ふと恐ろしい想像が頭をよぎる。振り払うように、振動する携帯に手を伸ばした。
「……はい」
客の可能性もあるから、下手なことは言えない。ただ名乗るだけでも、万一、藤井夫人のような相手だった場合にややこしいことになりそうだ。まぁ、名前からすると男性らしいが、関係者である可能性も否定出来ないわけだし。
『紘(コウ)?』
「はい?」
『あれ? これ、……えっと、城ノ内の携帯じゃないですか?』
「あぁ、はい。そうです。今ちょっと本人が出られないので、代理で出させていただいたんです」
『あー……、ひょっとして、紘、寝てます?』
ラフな話し方。どうやら仕事の依頼人ではなさそうだ。
「よくご存じで。さっきから起こしてるんですけど、全然で」
『やっぱり。……おい、直樹。お前が飲ませっからだぞ』
どうやらもうひとり居るらしい。『徹』とやらがもうひとりに語りかけると、低い笑い声が向こう側で響いた。相変わらず弱えなぁ、と。
「あぁ、昨日ご一緒だったんですか?」
『はい。と言ってもそいつが居たの三十分だけですけど。ちゃんと帰れたかちょっと心配だったもんで』
三十分。それで帰りの心配をされるって、城ノ内さんそんなに弱いのか。衝撃の事実を知ると同時、例の破壊的テキストにも納得がいった。
「残念ながら、家には帰ってませんね」
『あー……そうですか。すんません。多分、もうそろそろ起きると思うんで。ところで、えっと、どちら様? あ、こっちは城ノ内の友人なんですけど』
「私は部下です」
『あぁ、もしかして噂のあかりちゃん?』
「……はい」
噂ってなんだ。飲み会で何を話した城ノ内。
わずかな間でこちらの思いをある程度把握したのか、『徹』は続ける。
『君のこと珍しく気に入ってるみたい。彼女でも出来たのかと思ったくらい楽しそうな話し方だったから』
顔も知らないのに、ニヤニヤと笑っている様子が目に浮かぶような、そんな話し方。
少し、苛立つ。この電話の相手にも、先ほどの予言通りわずかな日光で眉間に皺を寄せ始めた傍らの上司にも。
もう、声は届くだろうか。
「……まぁ、そうですね」
『……へ?』
「あかりちゃん……? あれ、今、何時?」
「ある意味恋人以上かもしれません」
「俺の携帯? ……誰から?」
寝ぼけ眼で身を起こす上司を見下ろして、にっこりと笑ってやる。
「一度、孕まされましたから」
「────!! ちょっ、」
気付け薬としては最高だったらしく、一気に顔色が変わると同時、彼は私の手から乱暴に携帯を奪い取った。
「もしもし!? 徹か! 嘘だからな今の!!」
焦る上司の耳元から、ゲラゲラと大笑いする声が漏れだす。彼は笑い声に対して一通り弁解すると、何故か再び、非常に嫌そうに、こちらへ携帯を差し出してきた。
「……代われって」
余計なこと言わないでよ。そんな思いが滲み出たようなじっとりとした視線。対照的なくらいの笑顔で受け取ってやる。
『君面白いねー! そりゃ紘のお気に入りになるよ』
電話の向こうの笑い声の中、そんなお褒めの言葉を頂いた。
『俺が言うのもなんだけど、仲良くしてやって。そいつ――』
「……はい、それじゃ代わりますね」
ひとことふたことの挨拶を交わし、携帯を返却する。ホッとしたような顔でそれを受け取り、私に背中を向けて、上司は電話を切った。
ゆっくりとこちらを振り返った彼に、舌を出してやる。
「あかりちゃん、本っ当、勘弁して」
「何がです?」
「女の子がなんてこと言うの、まったく」
「男の子なら言ってもいいと?」
「…………昨日のこと、まだ怒ってる?」
「怒ってるというよりは、気持ちがおさまらない感じです。どうすればいいのか、自分でもわかりません。まぁ、今のでちょっとは溜飲が下がりましたけど」
「……OK。じゃあ落としどころを提示してみようか」
「落としどころ?」
「今後、昨日みたいなことに協力してもらう場合にはちゃんと事前に相談する」
それは昨日も聞いた。何も言わずに続きを促す。
「それと、業務の一環として協力してもらうんだから、精神的負担を考慮して給料上乗せするよ。……あー、三万くらいでどう?」
「…………」
飛び出してきた意外な提案に思わず目をしばたたかせる。
「……足りない?」
私の反応に苦笑しながら、彼が問う。黙っていればいくらまで上がるんだろう、などという考えが頭をかすめる。
「いえ、十分です」
首を横に振ると、今度は安堵の表情で彼が笑う。
「じゃあ、悪いけど、改めてよろしくね」
「……はい」
差し出された手のひらに自分の手を合わせる。仕方ないな、とこちらも笑って。
なんだか、愛人契約でもしたようで複雑な気もするが、業務なら割り切るまでだ。
「…………」
いつもの笑顔に戻った上司を見つめながら。
私は先ほど『徹』から言われた最後の言葉を思い出していた。
『俺が言うのもなんだけど、仲良くしてやって。そいつ――友達少ないから』
#09 聞き込み調査
2014/10/04 00:46 □ 城ノ内探偵事務所
「すみません、『徹』さんですか?」
午後八時。郊外の居酒屋で声を掛けたのは、チャコールグレーのスーツに身を包んだ男性。目印の赤いネックストラップにはこの街ではそこそこ名の知れた会社のロゴが入っていた。同じ会社に勤めているはずのもう一人の姿は見えない。
「『あかりちゃん』? 初めまして」
「初めまして。すみません、お時間いただいてしまって」
「構わんよ。君の顔見てみてたかったし。もうひとりは後から来るから、まぁ座って」
促されるまま、隣へ腰掛けた。カウンターの端っこの席。
木下徹と名乗ったこの男性と連絡を取ったのは、例の電話の翌日のことだった。ぞろ目で印象に残りやすかったその番号を、自分の携帯で叩く。不審そうな声ながら、八回目のコールで彼は電話に出てくれた。
「突然申し訳ございません」
上司である城ノ内紘について、少し話を聞きたい。そんな突然のお願いに面食らいつつも、彼は私と会うことを快く了承してくれた。彼は新婚らしく、万が一にも妙な疑いをもたれないように、もうひとりの友人、橋爪直樹も一緒なら、と条件を付けられたが、こちらとしては願ったり叶ったりだった。情報源は多い方がいい。
さらに二日後。指定されたのはこの小さな居酒屋。結局もうひとりはトラブル対応とかで遅刻予定らしいけれど。
事務所へ入って約一ヶ月。ほぼ毎日を一緒に過ごしているけれど、上司には謎が多い。
毎日事務所で寝泊まりしているわけではなさそうだが、どこに住んでいるのか。何故たったひとりで探偵事務所なんていうものをやっているのか。彼に休日があるのかはわからないが、あるとしたらどこで何をしているのか。そして、上司曰くは『多い』、木下徹曰くは『少ない』という『友達』について。
私は何も知らない。知る権利も、知る必要もないことだと言われるかもしれないけれど、それでもなんだか悔しい。
「趣味嗜好とか、なんでもいいです。城ノ内さんについて教えてください」
「んー、俺も直樹も、そんなに知ってるわけじゃないけどね」
「おふたりは上司とどういったご関係なんですか?」
「高校ん時の同級生だったんだよ。別に、特に仲良くもないただのクラスメイト」
「? 友達じゃなかったってことですか?」
「そ。あいつに対してはみんなそんな感じ。あいつ、あー、……結構いいトコの子でさ。正直付き合いづらかったんだよね。暗いっていう感じじゃなかったけど、全然笑わないし、近寄りがたいっていうか」
「…………へぇ」
意外な過去。今の上司しか知らない自分には、笑わない上司など想像も付かなかった。
「俺も直樹も、高校時代にあいつと話したのなんか数えるくらいじゃないかな」
「じゃあどうして今は……」
「何年か前、たまたま繁華街で会って一緒に飲んだんだ。家出たって噂は聞いてたけど、当然同窓会にも出てこないし、話聞かせろよって。ま、実際は出来上がってた俺らが無理矢理拉致って連れてったんだけど。素面ならそんなこと出来なかっただろうな。途中まではすげぇ嫌がってる顔だったし」
「途中まで?」
「ん。あいつ酒めちゃくちゃ弱いから、ちょっと飲ませたらソッコーで潰れたんだよ。で、介抱してるうちにうち解けた、って経緯。今じゃ誘ったら短い時間だけ付き合ってくれるよ、酒抜きでね」
そこまで話して、彼は視線を上げた。
「おぉ、お疲れ。なんだ、早かったな」
「お疲れ。っと、君が『あかりちゃん』?」
もうひとりの到着。会釈で回答した。
「話ほとんど終わっちまったよ」
「まぁ、紘に関しちゃ俺らもほとんど知らないからな」
「あかりちゃん、こいつがこの前紘潰した犯人ね」
「もうちょっと飲めるようになってるかと思ってたのになぁ」
「あいつは無理だろ。でもまぁ、酔わせたから聞けたんだよ、君の話も」
「……私のこと、なんて言ってたんです?」
ウーロンハイの入ったグラスを傾けながら、隣の男はからかうように笑う。
「『面白い子なんだ』って」
「そうそう、そりゃもう楽しそうにさ。徹が嫁のこと話す時そっくり」
橋爪直樹のそんなセリフに、新婚・木下徹が吹き出した。
「今日はありがとうございました。お話、聞けてよかったです」
「いや、大した情報なくてごめんね」
「しかし、あかりちゃん強いね! 紘と正反対だ」
「いえ、それほどでもないです」
真っ赤になったふたりに見送られながら、ひとり帰路につく。
知りたかったことは何もわからなかった。それどころか、彼らは城ノ内紘が探偵をやっていることすら知らなかった。
それでも、話を聞けてよかった。それは本心だった。
『面白い子なんだ』
頭の中で、実際には聞いていないセリフが、上司の声で再生される。
「…………人の気も知らないで」
零れた独り言は、暗い夜道に吸い込まれて消えた。