息子を探してほしい、と、その婦人は言った。
「一ヶ月前に探すなというようなメモを残して居なくなったんですけど、どこにいるのかわからなくて。週一くらいでどうでもいいような連絡があるので、生きてるのは確かなんですけど……」
事務所内の一角、パーティションで囲っただけの応接スペース。
お茶を出して自席に引っ込もうとした私を、上司が引き止めた。腕を掴まれ、視線とわずかな顎の動きで傍らの椅子に座るよう指示される。
「…………」
いや、別にいいけどさ。あの暗号解読今日中じゃなかったっけ?
「おそらく意図的でしょうね。敢えて定期的に連絡を入れている。ただの家出で特に事件に巻き込まれているわけじゃないなら、警察の動きは鈍いでしょうから。家出の前、息子さんと何かありました?」
「お恥ずかしいことですが、学校の成績のことで、少し叱りました。それがきっかけで、大喧嘩になりました。他の子と比べて小遣いが少ないことも不満だったようで……」
「なるほど」
軽く頷きながら、テーブルに置かれた写真を手に取る上司。
「お願いします。まだ十七歳なんです」
憔悴した様子で、婦人が頭を下げる。
ここへ来るまで一ヶ月。今まで普通に生きてきた人にとって、探偵事務所なんて気軽に来られる場所じゃない。
もし自分だったら、と考える。親戚や友人関係、心当たりはすべてあたって、警察にだって足を運んで。おそらく、ここに来るのは最後の手段。
信用出来るのかどうかもわからない、探偵なんていう肩書きの胡散臭い相手に、ただ頭を下げ続ける姿に、心が痛む。その場に居るだけの立場上、顔を上げてくださいとも言えず、それでもはやく、何か声を掛けてあげてほしくて、私はちらりと隣の探偵を窺った。
「……っ」
そこにあったのは、目の前のつむじに対する、蔑むような笑み。
こちらの視線に気がつくと、上司は質を変えた笑みをこちらに向け、そしてまた何事もなかったかのように、先ほどまでの営業スマイルで婦人に向き直る。
「吉岡さん、顔を上げてください」
不安げに体勢を元に戻す婦人をまっすぐに見据え、
「ひとつ、お聞きします」
口調はとても優しいのに、その声はどこか冷めた色をしていた。
「あなたは息子さんを連れ戻したいですか? それとも息子さんに帰ってきてほしいですか?」
「え、……え?」
「言葉通りの意味です。前者なら、居所がわかれば報告します。連れ戻すなりなんなりご自由に。後者なら、自主的に帰るように仕向けます」
「……そんなことが、出来るんですか」
「後者の場合も、居場所がわかった段階で同じく報告はします。でも、決して何もしないでください。約束出来ますか?」
彼の顔から笑みは消え、口調は強くなっていく。怖い、と思えるほど。
「着手金が十万。成功報酬が三十万の締めて四十万、ってところですかね。おそらく、それほど時間はかからないでしょう」
そんなセリフをあっさりと言い退けて、
「どうされますか?」
「…………ぁ、」
呆然と、探偵を見つめる依頼人。戸惑い、そして目の前にあるのが、希望なのか、それともそれ以外の何かなのか、測りかねている表情。
「吉岡さん?」
「え、あ……お、お願いします」
うわずった返答。婦人は慌てたようにその場で鞄を開き、震える手で着手金を差し出してきた。
私に受け取るよう顎で指示すると、上司は再度、営業スマイルを作る。
「承りました。どうぞご自宅で息子さんのお帰りをお待ちください」
*
「……はぁ」
何度目かのため息に、上司が笑う。
「どうしたの? さっきから」
「なんだか疲れました」
「あはは、緊張した? 駄目だよ、あれくらいで」
「だってなんか深刻すぎて」
私の言葉に上司が苦笑する。
「こんなとこに来る人はみんな深刻だよ。……ほとんどね」
「……そっか、そうですよね」
自分の考えが甘かったことに気付く。どんな人がここに辿りつくのか、先ほど考えたばかりだったのに。
ここに居れば、他人の深刻な人生と、嫌でも向き合うことになるのだろう。――まぁ、あくまでここに居ればの話だけれど。
「あかりちゃん、それ今日中に終わりそう? 終わらなかったら無理しなくていいよ?」
「いえ、終わらせます」
せめて任された仕事くらいは終わらせないと、いくら一日でクビになった人間といっても、いったい何のために雇われたのかわからない。
「別に、明日でいいのに」
机に肘をついて顎をのせ、ポツリと零した上司のセリフは、狭い室内に、やけに響いた。
「…………あし、た?」
「うん。明日の夜に渡す予定だから、その報告書」
「いや、えっと、」
「ん?」
「……私、明日も来ていいんですか?」
「えっ? 来られないの?」
「いえ、そうじゃなくて」
「??」
私の言いたいことは理解不能らしく、肘をつくのをやめた彼は眉間に皺を寄せて首を傾げている。
「だって私、あんな醜態晒してしまって、その」
思わずうつむいてしまう。言葉が上手く出てこない。
「あぁ! って、え? そんなこと気にしてるの?」
立ち上がり、こちらの席に近づいてくる上司の気配。
「……気にしてます」
「あんなのでクビにするわけないでしょ。やっと来てくれた事務員さんなのに」
「初日でヒス起こすろくでもない事務員でも?」
事務椅子を少し回して、恐る恐る、彼を見上げた。
「まぁ、あれは怖かったね」
冗談っぽく身を縮め、上司が笑う。それが恥ずかしくて、思わずまたうつむいてしまった。今この場に穴があったら泥水で満たされていようと喜んでダイブする、絶対。
「だから、これからは怒られないように注意するよ」
「……っ」
優しい声とともに、後頭部に置かれた手の重みが、くしゃりとわずかに髪を乱す。
「あぁ、ごめん。これもセクハラかな」
すぐさま離れていった手のひらの余韻を消すために、髪を直す振りして頭に手をやった。
再び顔を上げた私に上司がまた笑う。
「末永くよろしくって言ったでしょ? もちろん、君が嫌なら別だけど」
ごめんなさいとか、ありがとうとか、言わなきゃいけない言葉は一杯あるはずなのに、その時の私は、首を横に振るのが精一杯だった。
*
五月十七日、午後二時十五分。
「あ、はい。少々お待ちくださいませ」
事務所の電話に出ると、相手は聞き覚えのある声だった。
「城ノ内さん、吉岡さんからお電話です」
「はいはい。思ったより早かったね」
そんなことを言いながらこちらに近づき、受話器を受け取ると、上司はにこやかに電話の向こうと話し始めた。
「…………」
思わず、上司の腰を叩く。軽く、二回。振り向いた上司は椅子に座った私が自分を睨み上げているのに気付いて、あっ、という顔をした。そして、片手で拝むような仕草をして、慌てて身体の位置を変える。
ひとつしかない電話機が私の机にあるため、上司の電話中は邪魔で仕方ない。机の向こう側に回ってくれれば問題はないのに、と、毎回苦情を訴えているのだが今のところ最初から向こう側に行ってくれたことはなかった。
「あぁ、はい。それはよかったです」
無事ノートパソコンの正面に戻ることが出来た私は、目の前の上司の会話を気にしつつも、報告書レイアウトの続きを始める。元になるテキストは、二日目の出勤時にもらったメールアドレスに上司から送られてきたもの。
『あかりちゃんのアカウント取ったから、テキストはそこに送るね』
初日のヒスの原因は、私が口走った方法であっさりと解決された。携帯で入力されたテキストは前に比べれば格段に誤字が少なく、読みやすいものだった。いくら改行がいい加減でも、句読点がすっ飛んでいても、予測変換で漢字や接続詞がとんでもないものになっていても、アレと比べれば天と地の差だ。
「では、振込用紙を……え、来られるんですか? 今日? あぁ、はい。構いませんが」
ちらりと上司を見る。どうやら、任務完了のようだ。
吉岡孝太の行方調査報告書、というよりは単に住所をふたつ並べただけの書類を作成したのは、五月十五日――つまり、吉岡夫人がこの事務所に来た翌日の朝のことだった。
朝、出勤した私に、携帯を眺めながら、上司は言った。
『あかりちゃん、吉岡さんの件でメール送ってるから。昨日の置いといて、こっち先にお願い。すぐ出来ると思うから』
寝起きのようなぼんやりした口調で、あくびをしながら。開いたメールには住所がふたつ。住んでいる場所と、働いている店の住所。おそらく年齢を偽って働いているのだろう。店名を見る限り、あまり健全ではなさそうだ。
『って、もうわかったんですか!? 昨日の今日で!?』
大都会というほどではないにせよ、この街もそれなりに栄えてはいる。
人ひとり見つけ出すのはそう簡単ではないはずなのに、この短時間でやってのけたというのか。
『まぁね。見たことある顔だったし』
驚く私に軽く笑い、上司は指示を追加した。
『あの奥さんちょっと心配だから、一切の行動を慎めって書いといて。これからの計画邪魔されても困るから』
ご家族の行動により任務が失敗に終わった場合、一切の責任は負えません。そんな一文が効いたのか、吉岡夫人は探偵の指示に素直に従ったらしい。
「はい、では、お待ちしております」
上司は受話器を置くと、今さら視線に気付いたのか、こちらに笑顔を向ける。
「近くに居るみたい。お金、これから持ってくるってさ」
「…………はい」
「何か聞きたそうな顔してるね」
「はい、まぁ」
「いいよ、聞いて。答えるかはわからないけど」
「じゃあ、遠慮無く」
「どうぞ」
「どうやって説得したんです?」
「説得?」
「吉岡さんの息子さんです。家に戻られたっていう電話だったんでしょう?」
「うん」
「家出少年って、どう言ったら素直に帰るのかなって」
「……説得なんかしてないんだよ」
「してない?」
私に話していいかどうか悩んだのか、少しの沈黙の後、上司は口を開いた。
「あかりちゃんさ。例えば自分だったら、家出して身分隠して働いててさ。ある時何故か周りの人に『家に帰れ』って言われるようになったらどう思う? 同僚にも、事情も何も知らないはずの初対面の赤の他人からも同じこと言われるの。それもひとりやふたりじゃない、会う人会う人みんなから」
「…………」
「僕なら気持ち悪くなって引きこもるかもね。でも、彼は引きこもろうにも同僚の家に居候してた。そりゃそうだよね。賃貸契約には住民票が要る。未成年なのはすぐにわかるし、未成年がひとりで契約なんてどこも受け入れてくれない。そもそも親から捜索願が出されてるかもしれないのに、のこのこ役所に住民票取りに行ったり出来るわけない。で、その同僚にももちろん例のセリフを言われてしまう」
「……だから、」
「そ。帰ってくるしかなかったんだよ」
「…………」
「彼が早めに帰ってきてくれてよかった。もうちょっとしぶとかったら店長に全部バラしてクビにしてもらうしかなかったからね。穏便に済んで万々歳だ」
「…………」
「呆れた?」
こちらの反応に苦笑しながら、上司が頭を掻く。
「いえ、そういうわけでは」
思わず首を小さく横に振る。
「でも、そんな芸当どうやって――」
言葉の途中、ドアの方からノックの音が聞こえてきた。
「はーい。あかりちゃん、お茶お願い出来るかな?」
「あ、はい!」
慌ててキッチンスペースへ走る。その背中に声が掛けられた。
「先にその質問に答えとくよ」
「……え?」
振り返ると、上司はいつもの笑顔のまま、こう言った。
「企業秘密だけどね――あかりちゃん、僕は友達が多いんだよ」
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