昼休み明けの午後一番、ボールペンのインクが切れたため、ちょっと隣の建物にある文具屋に行っている間に電話が鳴ったらしい。事務所のドアを開くと上司がまた私の机のど真ん前に立っていた。
いい加減、一回キレておいた方がいいんだろうか。
一瞬そんな考えが浮かんだが、今回は自分が居なかったんだから、さすがに許容すべきだと思い直した。まぁ、私が事務所に戻って上司の真後ろに立った段階で気づいて退いてほしいと考えるくらいは贅沢ではないと思うんだけれど。
「あぁ、はい。いえ、報告書は今日速達で発送する予定ですが。今日ですか? わざわざ来ていただかなくても……はい、まぁ……では十四時半に。お待ちしております」
私がまた彼の腰を叩くかどうかを悩む前に、上司は電話を置いてくれた。
珍しく疲れた様子でため息をつく。
「あぁ、ごめん。また邪魔してたね」
「いえ。ボールペン買ってきましたよ。これ、レシートとお釣り。箱買いして備品棚に入れてありますので」
「ありがとう。ご苦労さま」
一旦自席へ戻り、受け取ったものを机に仕舞うと、
「……エアコンつけようか。人来るし、外暑かったでしょ?」
そう言って、彼は入り口へ向かった。
「はい。それ以前に、この部屋空気淀んでますよ」
この事務所は陽当たりが悪いうえに風通しも悪く、窓を開けてもあまり風は入って来ない。昼を過ぎ、気温が上がり始めてそろそろ不快の域に入りつつあった。
ドアの隣でかすかにパネルを操作する音が聞こえると、数秒のタイムラグの後、心地よい風が髪を撫で始めた。
異常に気づいたのは約十五分後。
「……あの、城ノ内さん」
「ん? データおかしかった?」
「いや、そうじゃないんですけど……なんか寒くないですか?」
「そう?」
携帯を眺めたまま、彼が答える。気のない返事は来客に備えてずいぶん早く羽織った上着の力ゆえか。薄着で風の直撃を受ける部下の気持ちなどわかるまい。
「……設定温度上げていいですか?」
たまらず立ち上がる。
「いいよ。でもお客さん来るから消さないでね」
「わかりました」
さすがに消す気はなかった。またすぐに空気が淀むのが目に見えていたから。
「……うわ、十八度になってる」
近づいた先には『事務所』とテプラの貼られた操作パネル。そりゃ寒いわけだ、とひとり納得し、上向き三角の表示がついたボタンを連打した。
「……あれ?」
「ん? どうかした?」
「温度が上がらないんです」
「もうちょい強く押してみて。最近反応悪いんだよね」
「……んー」
「……駄目?」
「はい」
「ちょっと貸して」
こちらに近づきながら、彼が言う。その言葉に従って壁に固定された操作パネルから離れると、上司は、ぎゅう、と効果音が付きそうなほど強くボタンを押した。
「……うーん」
「駄目みたいですね」
珍しくむくれた顔で、何度か圧迫を繰り返した上司は、どうしても温度が変わらないことを確認すると、ひとつため息をついた。
「ごめん、あかりちゃん。……今日のところは我慢してくれる? 修理手配しとくから」
「はい。まぁ、仕方ないですね」
「……机移動できないし、困ったね」
電話線と電源の都合上、机の移動は難しい。いや、もちろん移動することは可能だが、理由が一時的なエアコン故障では、それだけの労力を使う気力は湧かなかった。
「まぁ、あったかいお茶でも飲んで我慢しますよ」
「あ、いや、ちょっと待ってね。確か……」
「はい?」
パタパタと小走りでキッチンスペースへ駆け込む上司を目で追う。開け放たれたドアからほんのわずか、生ぬるい空気がなだれ込んできて、私は初めて、耐えきれなくなったらそっちに逃げればいいんだ、と気付いた。
ガサゴソと音はするものの、上司の姿は見えない。そういえば、キッチンの奥にもうひとつドアがあったような……? 自分のおぼろげな記憶を確かめるために、ひょいと音のするほうを覗き込んだ。
記憶は正しかったらしく、ドアの向こうの見知らぬ空間から何かを抱えて出てきた上司と目が合う。
「あったあった。あかりちゃん、これ」
いつもの懐っこい笑顔でその何かを渡される。
「……カーディガン?」
それは、クリーニング上がりのビニールに包まれた黒い男もののカーディガン。
「僕のだからあかりちゃんには大きいだろうけどね。気に入らないかもだけど、風邪引くよりマシでしょ? あとこれも。こっちはなんかのノベルティだったやつだから安っぽいけど」
「……じゃあ、お借りします」
もうひとつ押し付けられたストールを傍らに置き、カーディガンに手を通す。もともとゆったりサイズらしく、袖はやっぱりかなり余った。丈も尻まで完全に隠れる状態で、温度調節としてはちょうどいいけれど、服に着られている、というのはこういうことを言うんじゃないだろうか。
「……」
同じことを考えているのか、上司を見ると、ずいぶん複雑な顔で苦笑していた。
*
「ところであかりちゃん、……ちょっと質問いいかな?」
自席に戻った上司は、一度手にした携帯を、意を決したように机に置くと、何故かとても言いづらそうに口を開いた。その様子に違和感を覚え、何か深刻な話なのかと、パソコンから目を離して向き直る。
「どうぞ? なんですか、改まって」
「あかりちゃんてさ、……あー、えっと、……彼氏とかいる?」
「…………は?」
想定外の質問だった。思いっきり顔を歪めた私に、上司が慌てたように付け加える。
「いや! あの、変な意味じゃなくて。業務上必要な確認というかなんというか……」
「……なんですか、それ」
「あー……はは、答えたくなかったらいいよ、ごめん」
「……別に構いませんけど」
業務上必要というのがよくわからないが、まぁ、ここまで言いづらそうにしているんだから、単なる興味本位というわけでもないんだろう。
先ほどのストールをひざ掛け代わりに足にのせながら、努めて冷静に答える。
「そう呼べるような人は今のところ居ませんね」
「結婚願望とかあるほう?」
「んー、そうですね。……夢みたことは、ありました。でも、」
答えながら、純粋だった頃に思いを馳せる。それほど前ではないはずなのに、今となっては遠い昔のよう。
「今はそれもないですね」
「……そか。若いのにもったいない。でも、ま、それならよかった」
ひとり頷きながらの返答に、ほんの一瞬、腹の奥底が沸き立った。
「……なんなんですか、さっきから」
苛立ちを込めて問う。上司にとっては意味のある質問なのかもしれないが、こちらにとっては蚊帳の外のようで、これが不愉快以外のなんだというのか。
「ごめんね。実は、ちょっと手伝ってほしいことがあってさ」
「……手伝い?」
「うん。まぁ、特に何もしなくていいんだけどね。黙って僕の側に居てくれたらそれでいいから」
そう言って、彼は人差し指を自分の口もとに添える。その仕草で、私は、彼の言う『黙って』が『文句を言わずに』の意味ではなく、文字通り『言葉を発さずに』の意味だと理解した。一応、拒否権は確保してくれているらしいが、特に断る理由も見つからない。
「はぁ。まぁ、いいですけど。今日は報告書も簡単なものばっかりですし」
「ありがとう」
こちらに笑顔を向けて短く礼を言うと、ちらりと時計に目をやる。一瞬の視線の冷たさと、また吐き出されるため息。
『わざわざ来ていただかなくても』
電話の時の言葉を思い出す。どうやら今日の来訪者は彼にとってよっぽど会いたくない人物らしい。
重い腰を上げ、壁に掛けられた鏡の前に立つ上司の手には、カーディガンと一緒に持ってきたのか、深い青色のネクタイ。
「珍しいですね。誰が来られるんです?」
面接の時も、今までの来客の時も、上司がネクタイをしているのを見たことはなかった。いつもはラフな襟元が、意外にも慣れた手つきで引き締まっていく。
「…………来たらわかるよ」
「まぁ、別にいいですけどね。誰でも」
もしかして、よっぽど偉い人なんだろうか。
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