藤井夫人の一件から一夜。
さすがにあれだけ喧嘩を売られたあとにその本人からなだめられてもそう簡単に機嫌は直らず、昨日はむすっとしたまま過ごしてしまった。上手くやらないといけないのはわかっていても、どうにもおさまりがつかない。
午前九時十五分。切り替えきれずにもやもやを抱えたまま、私は事務所のドアの前にいた。
「……ん?」
ドアノブをひねると、妙な抵抗。
――……鍵? 城ノ内さんまだ来てないのか。
「っと、どこ入れたっけ」
鞄の中から鍵を探し出す。
『あなたを信頼出来る人間と判断しました』
あのセリフは本気だったらしく、初日の帰り際、今となっては見慣れた笑顔で渡された合鍵。それは信頼という名の枷でもあり、複雑な気分になったものの、幸い上司は私より早く来て遅く帰るので使ったことはなかった。
なんとなく緊張しながら鍵を回す。カチャリと小さく、無機質な音がした。
「……おはようございまーす」
誰もいない事務所に、小さく小さく挨拶する。当然返事は返ってこない。その代わり、湿っぽく淀んだ空気が私を出迎えた。
今日はまた暑くなると天気予報で言っていたのを思い出しながら、エアコンの電源を入れる。パネルを見た瞬間、昨日の嫌な記憶に眉間が反応して、落ち着け、と自分をなだめた。
風が髪をかすめていくのを感じてから、自分の椅子に引っ掛けてあったカーディガンに腕を通す。
設定温度を上げても風が当たるのは変わりなく、結局カーディガンは借りたままになっていた。
自分で服を持ってこなかったのは、事務所内でしか必要ないことと、上司への嫌みを込めて。そして正直、いくらサイズが合わなかろうと、嫌な思い出があろうと、商店街で九八十円のたたき売り商品より、高級ブランドタグの付いたカシミヤのホールガーメントのほうが着心地が良かったのだ。……ちっ、金持ちめ。
「……なんか、違和感あるなぁ」
パソコンを立ち上げながら、思わず苦笑する。窓際の席にいつもいる人がいない。ただそれだけの違いなのに、まるで違う場所のようだった。
まずはメールを確認。上司から三件のメールが来ていた。最後の受信時刻は四時十三分。彼の仕事のやり方は未だ色々と謎に包まれているが、なんだかんだでよく働いているようだ。
「……なんだこりゃ」
なんとなく最後のメールを開くと、思わずそんな呟きが漏れた。予測変換のオンパレードなのか、言葉と言葉の繋がりがすごい状態になっている。どうやらさすがの上司も眠かったらしい。
以前の暗号を彷彿とさせるが、日本語であるだけマシか。なんとなく大筋は読み取れた。
――これは城ノ内さんが来てからにしよう。
まずは、昨日の続きから手を付けた。
「…………」
が、キーボードを叩き始めても、なんだか落ち着かない。
「……紅茶でも淹れようかな」
静かなほうが集中出来ないなんて不思議なもんだ。独り言が多いなぁ、なんて、自分でツッコミを入れながら、キッチンスペースへ向かった。
*
そこで見つけたのは、誰かの足。
「─っ、」
一瞬、身体が跳ねた。
キッチンスペースの奥の部屋。中途半端に開いたドアの影から、ソファに乗った足が見えていた。もちろん、血まみれになった死体の一部なんぞではなく、生きた人間にくっついた状態での発見だ。
中を覗き込むと、狭いからか事務所よりさらに薄暗い。物置兼仮眠室といったところか。物の溢れかえった中にギリギリ横になれるくらいのソファ。そしてその上で、上司が安らかな寝息を立てていた。
「……なんだ。居たのか」
眠りは深いようで、こちらの呟きにもまったくの無反応だった。
「…………」
ふと湧き上がったその衝動を無理矢理抑えつけて、小さく深呼吸。
「……城ノ内さん、起きてください。もう朝ですよ」
無反応。
「城ノ内さん、起きてくださいってば」
無反応。
「起きないとどうなっても知りませんよ?」
無反応。
頼むから早く起きて。――この衝動を抑えきれなくなる前に。
「……城ノ内さん?」
呼びかけながら、彼の額に手をやる。無反応な彼の代わりに、さらりと前髪が私の指を撫でた。
起きているときよりさらに幼い、子供みたいな寝顔。穏やかで無防備なその寝顔――
「……っ」
息が詰まる。自分の心臓が耳元へ来たみたいにうるさい。
もう一度、前髪に指を絡ませる。
――何、しようとしてるんだ。
息を殺して、ほんの少しだけ汗ばんだその額に触れた。
まだ、反応はない。自分を止めるきっかけが欲しいのに、阻んでくれるものは何もない。
「…………」
額の指はそのままに、もう片方の手で、ポケットの水性サインペンを取り出す。
あぁ、せめてここにあるのが油性ペンだったなら、もう少し良心が咎めてくれただろうに!
自分で自分を止められない。とにかく昨日の腹いせがしたくて仕方ない。
震える手で、ペン先を彼の額に向ける。
肉とか書いたら、城ノ内さん、さすがに怒るだろうか?
復讐の刃が彼の額に届く寸前、だった。
「─」
突然、彼の枕元で起こった振動音に、我に返る。
携帯の着信。マナーモードになっているのか、バイブのみで着信音は流れなかった。
「……『徹(とおる)』?」
画面上に表示されている名前を読み上げる。『友達』のひとりだろうか。
「城ノ内さん、お電話ですよー」
声を掛けても、手を叩いてみても、上司の肩を叩いてみても、揺さぶってみても。そこまでやっても彼は起きる気配すらなく、三十秒後、振動音は途切れた。
「…………」
お手上げだ。諦めよう。そのうち起きてくるだろうと、ティバッグの紅茶を淹れて一旦自席へ戻った。
が。
――気になる。
振動が止むことはなく、一分と空けずに着信は続いた。
音は出ていなくても、振動が気になって仕方ない。
「もう、うっとうしいなぁ」
再び眠り姫もとい上司の元へ戻り、電話に出てみることにする。
部屋に戻ると狭い空間だから余計なのか、事務所で聞くのと比べて振動音はずいぶんと大きい。
「脳の異常とかじゃないよな、これ」
相変わらず無反応の上司に、ふと恐ろしい想像が頭をよぎる。振り払うように、振動する携帯に手を伸ばした。
「……はい」
客の可能性もあるから、下手なことは言えない。ただ名乗るだけでも、万一、藤井夫人のような相手だった場合にややこしいことになりそうだ。まぁ、名前からすると男性らしいが、関係者である可能性も否定出来ないわけだし。
『紘(コウ)?』
「はい?」
『あれ? これ、……えっと、城ノ内の携帯じゃないですか?』
「あぁ、はい。そうです。今ちょっと本人が出られないので、代理で出させていただいたんです」
『あー……、ひょっとして、紘、寝てます?』
ラフな話し方。どうやら仕事の依頼人ではなさそうだ。
「よくご存じで。さっきから起こしてるんですけど、全然で」
『やっぱり。……おい、直樹。お前が飲ませっからだぞ』
どうやらもうひとり居るらしい。『徹』とやらがもうひとりに語りかけると、低い笑い声が向こう側で響いた。相変わらず弱えなぁ、と。
「あぁ、昨日ご一緒だったんですか?」
『はい。と言ってもそいつが居たの三十分だけですけど。ちゃんと帰れたかちょっと心配だったもんで』
三十分。それで帰りの心配をされるって、城ノ内さんそんなに弱いのか。衝撃の事実を知ると同時、例の破壊的テキストにも納得がいった。
「残念ながら、家には帰ってませんね」
『あー……そうですか。すんません。多分、もうそろそろ起きると思うんで。ところで、えっと、どちら様? あ、こっちは城ノ内の友人なんですけど』
「私は部下です」
『あぁ、もしかして噂のあかりちゃん?』
「……はい」
噂ってなんだ。飲み会で何を話した城ノ内。
わずかな間でこちらの思いをある程度把握したのか、『徹』は続ける。
『君のこと珍しく気に入ってるみたい。彼女でも出来たのかと思ったくらい楽しそうな話し方だったから』
顔も知らないのに、ニヤニヤと笑っている様子が目に浮かぶような、そんな話し方。
少し、苛立つ。この電話の相手にも、先ほどの予言通りわずかな日光で眉間に皺を寄せ始めた傍らの上司にも。
もう、声は届くだろうか。
「……まぁ、そうですね」
『……へ?』
「あかりちゃん……? あれ、今、何時?」
「ある意味恋人以上かもしれません」
「俺の携帯? ……誰から?」
寝ぼけ眼で身を起こす上司を見下ろして、にっこりと笑ってやる。
「一度、孕まされましたから」
「────!! ちょっ、」
気付け薬としては最高だったらしく、一気に顔色が変わると同時、彼は私の手から乱暴に携帯を奪い取った。
「もしもし!? 徹か! 嘘だからな今の!!」
焦る上司の耳元から、ゲラゲラと大笑いする声が漏れだす。彼は笑い声に対して一通り弁解すると、何故か再び、非常に嫌そうに、こちらへ携帯を差し出してきた。
「……代われって」
余計なこと言わないでよ。そんな思いが滲み出たようなじっとりとした視線。対照的なくらいの笑顔で受け取ってやる。
『君面白いねー! そりゃ紘のお気に入りになるよ』
電話の向こうの笑い声の中、そんなお褒めの言葉を頂いた。
『俺が言うのもなんだけど、仲良くしてやって。そいつ――』
「……はい、それじゃ代わりますね」
ひとことふたことの挨拶を交わし、携帯を返却する。ホッとしたような顔でそれを受け取り、私に背中を向けて、上司は電話を切った。
ゆっくりとこちらを振り返った彼に、舌を出してやる。
「あかりちゃん、本っ当、勘弁して」
「何がです?」
「女の子がなんてこと言うの、まったく」
「男の子なら言ってもいいと?」
「…………昨日のこと、まだ怒ってる?」
「怒ってるというよりは、気持ちがおさまらない感じです。どうすればいいのか、自分でもわかりません。まぁ、今のでちょっとは溜飲が下がりましたけど」
「……OK。じゃあ落としどころを提示してみようか」
「落としどころ?」
「今後、昨日みたいなことに協力してもらう場合にはちゃんと事前に相談する」
それは昨日も聞いた。何も言わずに続きを促す。
「それと、業務の一環として協力してもらうんだから、精神的負担を考慮して給料上乗せするよ。……あー、三万くらいでどう?」
「…………」
飛び出してきた意外な提案に思わず目をしばたたかせる。
「……足りない?」
私の反応に苦笑しながら、彼が問う。黙っていればいくらまで上がるんだろう、などという考えが頭をかすめる。
「いえ、十分です」
首を横に振ると、今度は安堵の表情で彼が笑う。
「じゃあ、悪いけど、改めてよろしくね」
「……はい」
差し出された手のひらに自分の手を合わせる。仕方ないな、とこちらも笑って。
なんだか、愛人契約でもしたようで複雑な気もするが、業務なら割り切るまでだ。
「…………」
いつもの笑顔に戻った上司を見つめながら。
私は先ほど『徹』から言われた最後の言葉を思い出していた。
『俺が言うのもなんだけど、仲良くしてやって。そいつ――友達少ないから』
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