「すみません、『徹』さんですか?」
午後八時。郊外の居酒屋で声を掛けたのは、チャコールグレーのスーツに身を包んだ男性。目印の赤いネックストラップにはこの街ではそこそこ名の知れた会社のロゴが入っていた。同じ会社に勤めているはずのもう一人の姿は見えない。
「『あかりちゃん』? 初めまして」
「初めまして。すみません、お時間いただいてしまって」
「構わんよ。君の顔見てみてたかったし。もうひとりは後から来るから、まぁ座って」
促されるまま、隣へ腰掛けた。カウンターの端っこの席。
木下徹と名乗ったこの男性と連絡を取ったのは、例の電話の翌日のことだった。ぞろ目で印象に残りやすかったその番号を、自分の携帯で叩く。不審そうな声ながら、八回目のコールで彼は電話に出てくれた。
「突然申し訳ございません」
上司である城ノ内紘について、少し話を聞きたい。そんな突然のお願いに面食らいつつも、彼は私と会うことを快く了承してくれた。彼は新婚らしく、万が一にも妙な疑いをもたれないように、もうひとりの友人、橋爪直樹も一緒なら、と条件を付けられたが、こちらとしては願ったり叶ったりだった。情報源は多い方がいい。
さらに二日後。指定されたのはこの小さな居酒屋。結局もうひとりはトラブル対応とかで遅刻予定らしいけれど。
事務所へ入って約一ヶ月。ほぼ毎日を一緒に過ごしているけれど、上司には謎が多い。
毎日事務所で寝泊まりしているわけではなさそうだが、どこに住んでいるのか。何故たったひとりで探偵事務所なんていうものをやっているのか。彼に休日があるのかはわからないが、あるとしたらどこで何をしているのか。そして、上司曰くは『多い』、木下徹曰くは『少ない』という『友達』について。
私は何も知らない。知る権利も、知る必要もないことだと言われるかもしれないけれど、それでもなんだか悔しい。
「趣味嗜好とか、なんでもいいです。城ノ内さんについて教えてください」
「んー、俺も直樹も、そんなに知ってるわけじゃないけどね」
「おふたりは上司とどういったご関係なんですか?」
「高校ん時の同級生だったんだよ。別に、特に仲良くもないただのクラスメイト」
「? 友達じゃなかったってことですか?」
「そ。あいつに対してはみんなそんな感じ。あいつ、あー、……結構いいトコの子でさ。正直付き合いづらかったんだよね。暗いっていう感じじゃなかったけど、全然笑わないし、近寄りがたいっていうか」
「…………へぇ」
意外な過去。今の上司しか知らない自分には、笑わない上司など想像も付かなかった。
「俺も直樹も、高校時代にあいつと話したのなんか数えるくらいじゃないかな」
「じゃあどうして今は……」
「何年か前、たまたま繁華街で会って一緒に飲んだんだ。家出たって噂は聞いてたけど、当然同窓会にも出てこないし、話聞かせろよって。ま、実際は出来上がってた俺らが無理矢理拉致って連れてったんだけど。素面ならそんなこと出来なかっただろうな。途中まではすげぇ嫌がってる顔だったし」
「途中まで?」
「ん。あいつ酒めちゃくちゃ弱いから、ちょっと飲ませたらソッコーで潰れたんだよ。で、介抱してるうちにうち解けた、って経緯。今じゃ誘ったら短い時間だけ付き合ってくれるよ、酒抜きでね」
そこまで話して、彼は視線を上げた。
「おぉ、お疲れ。なんだ、早かったな」
「お疲れ。っと、君が『あかりちゃん』?」
もうひとりの到着。会釈で回答した。
「話ほとんど終わっちまったよ」
「まぁ、紘に関しちゃ俺らもほとんど知らないからな」
「あかりちゃん、こいつがこの前紘潰した犯人ね」
「もうちょっと飲めるようになってるかと思ってたのになぁ」
「あいつは無理だろ。でもまぁ、酔わせたから聞けたんだよ、君の話も」
「……私のこと、なんて言ってたんです?」
ウーロンハイの入ったグラスを傾けながら、隣の男はからかうように笑う。
「『面白い子なんだ』って」
「そうそう、そりゃもう楽しそうにさ。徹が嫁のこと話す時そっくり」
橋爪直樹のそんなセリフに、新婚・木下徹が吹き出した。
「今日はありがとうございました。お話、聞けてよかったです」
「いや、大した情報なくてごめんね」
「しかし、あかりちゃん強いね! 紘と正反対だ」
「いえ、それほどでもないです」
真っ赤になったふたりに見送られながら、ひとり帰路につく。
知りたかったことは何もわからなかった。それどころか、彼らは城ノ内紘が探偵をやっていることすら知らなかった。
それでも、話を聞けてよかった。それは本心だった。
『面白い子なんだ』
頭の中で、実際には聞いていないセリフが、上司の声で再生される。
「…………人の気も知らないで」
零れた独り言は、暗い夜道に吸い込まれて消えた。
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