「あかりちゃん、なんにする?」
タクシーをつかまえてまで連れて行かれたのは繁華街の片隅にあるイタリアンレストラン。
小さめの個室に通され、手渡されたメニューを眺めながら、上司がこちらに尋ねてくる。
「……なんでもいいです」
いつもふたりで過ごしているけれど、向き合って座った経験はあまりない。面接の時を思い出して、何故だか緊張した。
「じゃあ、おすすめのセットにしとこっか」
「はい」
高級店というわけではなさそうだが、サラリーマンが日々の昼食に選ぶほどの価格でもなさそうだ。
上司が注文を済ませて数分、並べられたカトラリーの中に箸を見つけてなんとなくホッとする。口の中が乾いている気がして、出された冷水に口を付けた。
そんなこちらの様子に気付いたのか、彼が不思議そうに見つめてくる。
「なんか、緊張してる?」
「……っ、はい」
一瞬言葉を詰まらせた私に、なんで、とおかしそうに笑う。
相変わらず子供のような、幼い笑い方。息がしづらい。優しいはずのその目は、真正面から相対すると、やっぱりすべてを見透かしているようで――怖くなる。
「せっかくここまで来たのに、そんなんじゃ味わかんないよ?」
冷水をひとくち含んで、彼が目を細める。
「ま、今日はお客さん来る予定もないし、昼休み長めでいいから、ゆっくりしよ」
そう言いながら、携帯に目をやる。
「…………」
視線が外れたからか、金縛りから解放されて、私は彼に聞こえないよう、静かに安堵の息を吐いた。
*
「ん、なかなかよかったね」
最後の飲み物が運ばれてくると、コーヒーのカップを持ち上げながら、上司が笑いかけてきた。
「はい。ごちそうさまでした」
こちらも紅茶のカップに口を付け、その熱さに一旦口を離す。
食事中、私の心中を察してか、極力視線を合わせないようにしてくれたおかげで、料理は落ち着いて味わえた。
「どういたしまして。ま、悔しいかな賭けに負けたのは俺だからね」
「負けるつもりだったくせに」
少なくとも途中からはそのつもりだったはずだ。
くすりと笑い合いながら、いつの間にか彼の一人称が変わっていることに気付く。これが、本当のこの人なんだろうか。観察するような視線を向けると、またふと目があってしまった。
「あかりちゃん」
「……はい」
「何か、俺に聞きたいことあるよね」
微笑みをたたえたまま、彼はそう言った。
わずかに冷たくなった視線に、ドキリと心臓が跳ねる。
「いいよ、聞いて。答えるかはわからないけど」
聞いたことがあるセリフ。あの時は答えてくれたけど、今度はどうだろうか。
知りたいけれど、知ってはいけない。そんな気がする。
彼にとって他人が立ち入ってはいけない領域に、踏み込んでしまう気がする。それでも――
「城ノ内さんは、――なんで探偵なんてやってるんですか?」
絞り出すように口にした質問は、私が本当に、一番知りたかったこと。
上司は少し意外そうな顔をして、
「……なんだ。そんなことならわざわざ徹たちなんかに聞かなくてもよかったのに」
「っ、知ってたんですね」
「あぁ、あいつらが告げ口したわけじゃないよ。その時、居酒屋に俺の友達も居たってだけ」
「……一体何人いるんですか、城ノ内さんの友達って」
舌打ちしそうなこちらの顔に笑って、
「じゃあ、その質問にも答えようか」
一度目を閉じ、小さく頷いた。
「あかりちゃんはさ、小さい頃、将来の夢ってあった?」
「……はい、まぁ一応。お菓子屋さんとかそういうのですけど」
「ん。俺はね、五歳の時に探偵になりたいって思ったんだ」
「五歳?」
「そ」
「五歳で探偵って……テレビか何かで見たんですか?」
「いや、五歳の時に誘拐されてね。俺、結構いいトコの子だったから。で、もちろん警察も動いてたけど、助けてくれたのが、親が雇った探偵。交渉人の経験もある人だったみたいだね」
誘拐。それはさすがに想定外だった。絶句するこちらに笑みを向け、彼は続ける。
「その日から、探偵になるのが俺の夢になった」
「……夢」
「残念ながら、俺はIQ180の天才でもないし、怪しげな薬で子供になったわけでもなかったからね。 その分、夢を夢で終わらせない程度の努力はしたつもり。おかげで今の俺がある」
これでひとつめの質問の答えになるかな、と。
「……五歳の頃から、ずっと、探偵になるつもりだった?」
「まさか。当時は本気だったけどね。幼い間ならともかく、成長するごとに自分の立場はわかってくる。腐ってもひとり息子だったから家継ぐとか色々ね。実際叶えられるとは思ってなかったよ」
そう言って苦笑する顔は、どこか寂しそうで、そしてどこか冷めた色をしていた。
「それでも諦めきれなくて、悪あがきは続けてきた」
「悪あがき?」
「あかりちゃん、探偵に必要な能力ってなんだと思う?」
「……っと、観察力とか推理力? 情報収集能力、あとは追跡能力とかですか? 城ノ内さんは情報収集能力に特化してますよね」
「うん。『情報を制する者は世界を制す』が俺の信条だからね。『探偵業の業務の適正化に関する法律』ってわかる?」
「……。いや、わからないです」
首を振ると、彼は、不勉強だなぁ、と肩をすくめた。
「平成十八年六月に出来た法律でね。第六条、探偵業務の実施の原則。『探偵業者及び探偵業者の業務に従事する者は、探偵業務を行うに当たっては、この法律により他の法令において禁止又は制限されている行為を行うことができることとなるものではないことに留意するとともに、人の生活の平穏を害する等個人の権利利益を侵害することがないようにしなければならない』」
「…………」
「つまり、探偵業として尾行調査や聞き込み調査ってのは法的に認められてるけど、対象者に気付かれれば罪になるってこと。なら、尾行の出来ない俺は情報を得るためにどうするか」
「……それが、他人を使うことですか?」
「間違ってはいないけど、正解ともちょっと違うかな。探偵業法では探偵業者以外への委託は禁じられてるし」
「……え? じゃあ」
「聞き込みに関しては知っていることを教えてもらってるだけだし、尾行もただ、GPSで、たまたまその場にいる友達に連絡を取って、写真を撮ってもらってるだけ。テキストのほうは実際に尾行してるようにでっち上げてるけどね」
思わず顔を歪める。その手法の是非はともかく、詭弁としか思えなかった。
「……まさか。不可能です。そんなに都合よくいくわけないじゃないですか」
「まぁ、そう思うだろうね。実際上手くいかないこともないわけじゃないし」
「信じられません。大体、そんなことやろうとしたら、どんな人数――」
そこまで言って、彼と目があう。静かに、ただ、笑っている上司。
「――それが、悪あがき?」
「だから、友達を作ったんだ。五歳の時から。最初はひとつの建物にひとり。ひとつのフロアにひとり。ひとつの会社にひとり。ひとつの部署にひとり。毎日最低ひとりずつ友達を増やしていった。情報は力になる。それは探偵じゃなくても同じだよ。そうやって、――城ノ内紘は力を手に入れた」
「────」
言葉を失う。ゾワリと、冷たいものが背中を駆け抜けた。
優しい笑顔のまま語られるそれは、紛れもなく、彼の執念の物語。
「もうひとつの質問に答えるよ、あかりちゃん」
カップの中身を飲み干して静かにソーサーへ返すと、彼は固まったままのこちらの表情に苦笑する。
「この街の人口は約十万人。その十分の一が俺の『友達』なんだよ」
*
「道ゆく人の十人にひとりが情報をくれるなら、ある程度の調査は可能だと思わない?」
そんな言葉で話を締めくくって、彼は片隅に置かれた伝票を手に取った。
「……帰ろっか。紅茶、冷めてるからもう飲めるでしょ?」
そのセリフでやっと、カップの取っ手を持ったままだったことに気が付く。
「……はい」
口を付けると、言われたとおり、私でも飲める温度になっていた。
そのまま一気に飲み干して、椅子から立ち上がる。
「ありがとうございました」
「ん。満足したならよかった」
こちらへ笑いかけた彼のその言葉は、きっと二重の意味を持っている。
『聞きたいことが聞けたなら、もう探らないでね』
要するに、拒絶に近い。彼から直接話を聞いたことで、逆に彼との距離は遠くなってしまった。
それを辛く思う必要はないはずなのに、胸のどこかが痛む。
もしかしたら、私は彼が好きなのだろうか。恋愛感情かどうかはわからないけれど。とにかく、自分が今の状況を気に入っているのは確かだ。失わずにすむならそれに越したことはない。
「…………」
大通りまでの道。並んで歩きながら、ふと隣の彼を見上げる。
視線に気付いた彼がこちらを向く前に、慌てて顔の向きを前に戻す。
「城ノ内さん」
「ん?」
「もうひとつ、質問していいですか?」
「いいよ。答えるかはわからないけど」
彼はまた、いつものセリフを口にする。結局、いつも答えてくれるけれど。
「家を出たって聞きました。それって、夢を叶えるためにってことですか?」
「いや、あー……、家を出たのは別の理由」
「別?」
口に出してから、失言に気付く。
木下徹も橋爪直樹も、実家については話したがらない、と言っていた。
一瞬、間をおいた後、苦虫を噛みつぶしたような顔で、彼は答えてくれた。
「……恥ずかしながら、五年前、とある事情で親と大喧嘩してそのまま家出。まぁ、そのきっかけがなきゃこうやって探偵することもなかっただろうし、よかったのかもね」
――あぁ、そうか。
いつかの記憶が蘇る。息子を捜してほしいという吉岡夫人へ向けた、あの冷たい表情。
あれは吉岡夫人へ向けたものではなくて、彼女を通り越して自分の親へ向けたものだったのか。
タクシーはすんなり捕まった。
深呼吸をひとつ。
切り替えて、通常運転に戻ろう。今日もまだ仕事が残っているんだから。
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