「はい」
公園のベンチに腰掛けてうなだれる私へ差し出されたのは、今しがた自販機から取り出されたペットボトルのスポーツドリンク。
「ありがとう、ございます」
受け取りながら、口にするお礼の言葉は途切れ途切れになった。息が上がっている。
自分より体力なさそうな目の前の男が案外けろっとしていて、なんだか悔しい。
受け取ったボトルをそのまま頬に当てる。表面の水滴が、汗と混じって頬を伝った。
どれくらい走ったろう。繁華街の喧噪は遠ざかり、この静かな公園で聞こえるのは虫の声と誘蛾灯の音くらい。
隣に腰掛けた彼が、自分の分のボトルをあおる。
「あー……、話聞くけど、どうせなら食事でもする?」
他人の目のあるところなら理性的に話が出来るんじゃないか、という希望的観測が垣間見えた。怒鳴られるのは苦手らしい。
「――ふ」
無意識に、息が漏れる。唐突に笑い始めた私に、彼がボトルを口から離してこちらを見る。笑いかけながら、首を横に振った。
「……いいです。なんか、気が済みました。一発殴って言いたいこと言ったし。それが、私の目的だったから」
彼は黙って、私の話を聞いていた。
「城ノ内さん。私ね、あなたがうらやましかったんです。あの時、私にはなんの力もなくて、何も、逃げることすら出来なかったから」
不思議と、気分は晴れていた。
「……今から、わがままなこと言いますね。仕方なかったってわかってます。私があなたでも、同じ事をしたかもしれない。でも、」
そう、これが、自分でも知らなかった、理不尽で他力本願な私の本音――
「五年前、一緒に連れていってほしかった」
馬鹿げている。そう思いながら、精一杯、笑って言った。
それが実際出来たかというと、もちろん無理だ。私たちはお互いの顔も知らず、彼に至っては西園の娘というだけでこちらの名前すら知らなかったんだから。
「ごめん」
反論もなく、ただ短く謝るその声には、罪悪感が満ちていた。
「そう簡単に償える事じゃないのはわかってる。君はどうしたい?」
その質問に、ベンチから立ち上がって、一度背伸びをする。
「別に、何も。今の状況も、今の自分も気に入ってるんです。だから、」
振り返って、ゆっくりと、彼の前に立つ。
「――もう二度と、居なくならないでください」
その言葉は静かな公園に、微かに響いた。
口にしたのは、心からの願い。
だって、彼の居るところこそが、私がやっと手に入れた、自分の居場所なんだから。
数秒の沈黙の後、小さく息を吐き出し、降参、というように両手を上げて。
「……わかった」
今のところそんな予定はないけどね、と付け加えた彼は、やっと、いつもの顔で笑った。
「約束するよ、俺は居なくならない。また君を怒らせて、夜逃げでもしない限りはね」
そんなおどけたセリフに、こちらもくすりと笑って。
「構いませんよ。私も五年前の私とは違います」
「ん?」
「見習いみたいなもんとはいえ、これでも一年探偵やってたんですよ? 何をしても、最悪穂積と西園の名前を使ってでも、必ず見つけ出して連れ戻します」
「……っ」
これ以上ないくらい強気な口調に、言葉を詰まらせる彼へ。
一呼吸置いて、とびっきりの笑顔を向けてやる。
「――次は、一発で済むと思わないでくださいね」
一瞬、見開かれる目。数回の瞬きの後、
「────ふっ」
吹き出しながら顔を背け、腹を抱えてひとしきり笑うと、
「結婚しなくて正解だ。絶対尻に敷かれてた」
顔を上げた彼は、そんな失礼な言葉を口にした。
公園の時計が十一時半を指す。
「帰ろう。駅まで送るよ」
それとも、うち泊まってく? なんていう冗談を聞き流し、帰路につく。
そんな冗談が出てくるということは彼の家はあの近くなんだろう。いずれ突き止めてやる、と心に誓う。
尾行ごっこは続行だ。いつか、家の前で待ち伏せて驚かせてやる。
「改めて、末永くよろしくね。あかりちゃん」
駅の改札前で差し出された手。彼との三度目の握手は、心からの笑顔とともに。
「はい」
*
新たな目標を胸に秘め、私の日常は続いていく。
薄暗い事務所で彼のカーディガンに手を通し、彼の笑顔に時には笑い、時には怒り、たまに昼食の賭けをして。
「はい、城ノ内探偵事務所です」
城ノ内探偵事務所は、今日も悩みを抱えた依頼人を受け付ける。
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