#よくある小説のように

2015/03/15 00:00 □ 城ノ内探偵事務所

「お嬢様、こちらは株式会社黒澤の代表、黒澤淳也様です」
「お誕生日おめでとうございます、洸香ひろかさん」
「初めまして。どうぞごゆっくりなさってくださいね」


 初めての社員旅行と銘打った豪華客船の旅だったが、案の定その銘が差し替えられるのにそれほど時間はかからなかった。
 傍らの上司から紹介されたその男を、さりげなく観察する。
 二十代後半というところか。隠しているつもりらしいが、少なくとも左耳にピアスホールが三つ。艶のない黒々とした髪があからさまに染め直してきましたと 言っているようで、逆に普段の不真面目さを物語っている。この笑顔も、なんというか……まぁ要するにあれだ。ひと言で言って、チャラい。見た目に反して仕 事は出来るというタイプにも見えない。典型的な「七光りの駄目社長」――そんな印象だ。加えてこちらを値踏みするようなこの不愉快な視線。首根っこひっ掴 んで出直してこいと追い出したい気分になる。
 というか、私が出て行きたい。出港から三時間弱。正直もう帰りたかった。立食形式のパーティは、入れ替わり立ち替わり色々な人が挨拶に来て全然落ち着かない。普通こういうのって着席のちゃんとしたディナーが定番なんじゃないのか。
「どうぞ、お嬢様」
 やっと人の波が途切れると、いつもと違う髪型の上司が空になったグラスの代わりにシャンパングラスを差し出してくる。周りをちらりと確認してからそれを受け取り、笑いを噛み殺した憎たらしい顔を睨みつける。
「社員旅行が聞いて呆れます」
「ま、社員旅行も業務の一環だし?」
「日頃の慰労はどうなったんですか。余計疲れるんですけど」
「じゃあ、それはまた次の機会に。ホント、よく似合ってるよ、あかりちゃん」
「……っ」
――あぁくそ。殴りたい……!

 今から三時間と少し前。
 上司が乗船手続きを済ませると、荷物を預け、私たちは船へと入った。
 生演奏のクラシックが流れる華やかなエントランスホール。生まれて初めて見る豪華客船という代物に、思わずキョロキョロと見回してしまう。
 ウェルカムドリンクのスパークリングワインを手にプロムナードデッキを歩くと、夏場でまだまだ明るい空の下、色とりどりの紙テープが目に入った。周りに他の大きな船もない、比較的静かな港の一角を、そぐわないくらいの華やかさが飾っている。出港セレモニーセイルアウェイパーティ。たった一晩のクルーズで大げさだけど、恒例のイベントらしい。
「なんか、違う世界みたいです」
 出港の長三声ちょうさんせいを聞きながら零した私の言葉に、上司は小さく肩をすくめた。
「それはよかった」

 船が動き出すと、探検がてら上司と散歩をした。最上階では船首側で水平線を眺め、その下の階ではカフェのオープンデッキから段々畑のような船尾を見下ろして。
 そしてさらに降りた次の階で――私は、数人の女性に拉致された。
「パーティはドレスコードあるから、それじゃちょっとね。いってらっしゃい」
 そんなことを言いながら、上司が手を振る。いや、だから一応スーツ着てきたんですけど。
 客室のひとつにたどり着くと、女性たちはニコニコしながら手際よく私を作り替えていった。総シルクの真っ赤なカクテルドレスに着替えさせられ、化粧を直 され、背中までの高級そうな人毛ウィッグをかぶせられ――、重く感じるほどたくさんの宝石で編まれたネックレスが自分の首元を飾った時には、さすがに気づ いた。
 これはドレスコードがどうのの話じゃない、と。
 改造が終わると、女性たちは満足そうに笑いあった。傍らの椅子に腰掛け、随分とゴツいメイド姿の女性が渡してくれた紅茶を飲みながら、必死に考える。自 分は何に巻き込まれようとしているのか。もしかしてこれは逃げるべきなのか、と扉のほうを伺ったその時、インターホンの音がした。
 先ほどの女性が野太い声で返事をして扉を開けると、入ってきたのは一組の夫婦。そして案の定その後ろには――意味ありげな笑みを浮かべる上司、城ノ内紘の姿があった。
 お疲れさま、と私に軽く声をかけると、上司は傍らに立ち、夫婦のほうへ向き直る。
塔崎とうざきさん、部下の園田です」
 完全に仕事モードの口調に、私も慌てて立ち上がり頭を下げた。
「園田さん、この度は娘のために申し訳ない。どうかよろしくお願いします」
「どうぞご自由になさってね。せめて船旅を楽しんでください」
「――っ、……はい。ありがとうございます」
 困惑をどうにか抑え、彼に合わせて仕事用の笑顔を作る。ちらりと一瞬だけ隣の男を睨みつけて。
――どういうことだ、このクソ上司。
 ヒントは少ない。けれど、とにかく状況を読まないとどうしようもない。この流れは明らかにビジネスになっている。不穏なものは感じるけれど、部下としてこれを邪魔するほど馬鹿じゃない。
 夫婦に誘導され、私たちは部屋の中央にある応接セットに移動する。高級感あふれるソファに腰を下ろすと、三人は差し出された紅茶に口を付けた。

――『塔崎』。
 上司は確かにそう言った。もしそれが私の知っている塔崎家のことなら、隣の県で絶大な影響力を持つ名家だ。私たちの住む御影市にも名家と呼ばれるいくつ かの勢力があるけれど、そんなものとは比較にならない。もしかしたら上司なら面識くらいはあるのかも知れないが、正直私にとっては殿上人だ。
 そんな人たちがこの船に乗っている理由。娘のため、と探偵の部下を名乗る小娘に頭を下げる理由。そして私のこの格好――
 薄ぼんやりと見えてきた答えは、隣の男が口にした。

「それで、脅迫状というのは?」

――あぁ、やっぱりか。
 妙に冷静な思考回路が小さく小さく諦めのため息を吐き出させる。
 さようなら、つかの間の『社員旅行』。
 そうだよね、そんなわけないよね。佐々木さん、いい人だもんね。誰かに頼まれたってそんな怪しいチケット何も言わずにこっちに渡すわけないよね。私が馬鹿だったよね。だってこういう時、――まず疑うべきは身内だということをすっかり忘れていたんだから!

「これなんですが」
 夫に促され、塔崎夫人が小さなバッグから取り出したのは、一枚の紙。
 上司の受け取ったそれをのぞき込むと、パソコンから印刷されたと思われる文字が並んでいる。フォントはごく普通の明朝体で多分十八ポイントくらい。よく あるコピー用紙によくあるインクジェットの黒インクで出力されたそれは、創作の世界に限ってはよくありそうなメッセージだった。

『娘の誕生パーティを中止しろ。さもないと娘の命はない。警察には連絡するな』

 まぁしかしその、そっちの世界でよくあるものに比べれば随分とシンプルな仕様だ。
「……雑誌とか新聞の切り抜き貼ったりとかじゃないんですね」
「今時筆跡隠すだけならこれで十分だからね。切り抜きって指紋はもちろん、分析したら住んでる地域とかもわかったりするから、実際やったら馬鹿だよ」
「あぁ、なるほど」
 面白みのない話だが、確かに理にかなっている。小さく頷く私をよそに、上司は話を再開した。
「封筒も見せていただけますか?」
「あ、はい」
 夫人がまた鞄の中から言われたものを取り出す。
「――!」
 上司の手に渡ったそれを見た瞬間、何故彼が呼ばれたかを理解する。
 よくある封筒に、先ほどと同じようにインクジェットで直接印刷された住所。
 そして切手の上の消印には四日前の日付と――『御影』の文字があった。
「今日は、娘さんは?」
「来てないんです。こんな隔離された空間より、家に居たほうが安心だからと……もともと華々しい席が苦手な子なので」
「確か、娘さん家を出ておられますよね? ご心配でしょう」
「はい、今は鳥木市に住んでいます。まぁ、ハウスメイトも何人か居ますし、交番も近いので大丈夫だとは思うんですが」
「連絡は取られてますか?」
「はい。先ほど出港前に携帯で」
「変わった様子もないようですし、いたずらだとは思うんですが、」
「いえ、たった一人の娘さんです。万が一のことがあってはいけませんからね」
 夫人の言葉を、上司が優しく遮る。親身になってくれる、それはそれはいい人の笑顔で。

――OK、理解した。
 上司が私の背中をぽんと叩き、自信に満ちた顔で笑う。
「お任せください。立派に代役を務めてみせます」

 つまり、『身代わり』なのだ、私は。

 塔崎夫妻が部屋を出る。おそらく事情を知っている塔崎家使用人であろう女性たちは他の手伝いに行ったのか、それとも気を遣って席を外したのか、いつの間にか居なくなっていて、部屋には私と上司だけが残された。
 カップに残った紅茶を飲み干して、隣の男を睨む。上司は飄々と、塔崎夫妻から受け取った写真付きの招待客リストを眺めている。
――何か言えよ。
 心を静めるために、ため息混じりの深呼吸を一度。
「説明を、求めてもいいですか」
 わずかに声が震える。もちろん怒りからだ。
「今君が想像してる通りだと思うよ」
「騙して連れてくるとか、信じられないんですけど」
「大丈夫大丈夫、何も起こらないって」
「殺人予告ですよ!?」
「塔崎さんも言ってたでしょ? いたずらだって」
「城ノ内さん、他人事だと思ってるでしょう!?」
 やっと顔を上げた上司に詰め寄る。
「そんなことないって」
 襟元を掴んだ私の手にガクガクと頭を揺さぶられながら、上司はあくまでへらへらと笑い続けた。
――この男は……!!
 ぷつりと、頭の中で何かが切れる音がした。ふっと頭の芯が冷える。
 どんなに怒っても効かない。というか、非常時なのになんだか面白がってる節がある。この状態で反省を促すには、やり方を変えなければいけない。
 皺になりそうなほど強く握りしめたシャツの襟元。ほんの少しその力を緩めて、彼の胸元へ額を寄せる。
「……あかりちゃん?」
「私なら、……万が一のことがあってもいいってことですか?」
 ゆっくりと静かに、良心に訴える。出来るだけ弱々しく、罪悪感を誘うように。

 少しの沈黙のあと、ごめん、と。バツの悪い顔をしているのが目に浮かぶような声で、悪かった、と。――そう、聞こえてくるはずだった。
 けれど予想に反して、上司はただ短く息を漏らした。
 くすり、と。

「……っ!」
 思わず顔を上げる。今ので笑うか? いくらなんでも失礼だ。一言くらい詫びてほしくてわざとらしい芝居を打ったのは確かだけれど、今の言葉も私の本音ではあるのだから。
 目が合うと、彼は浮かべていた底意地の悪そうな笑みの質を変え、いつものように優しく私の頭を撫でながら、
「安心して。絶対、君に手出しはさせないから」
 自信に満ちた口調で、そう言い切った。
「きっちり守ってさしあげますよ、お嬢様」
 わずかに挑発的な色を宿した笑みでそんなふざけたセリフを口にする。随分と自信があるご様子だが、もしかして。
「……犯人、わかってるんですか? 御影に居るなら守備範囲ですよね」
「いや。投函が御影ってだけだからね。情報が少なすぎてさすがに三日じゃ無理だよ。そもそも電話で依頼されたから脅迫状も今日初めて実物見たくらいだし。動機路線でもあれだけ大きい家だと妬みや逆恨みも多いからね。だから――」


「洸香お嬢様」
 上司の呼びかけに我に返ると、目の前には知らない顔。またどこぞの御曹司か。
 どうでもいいが、もしかしてさっき眺めたリストだけで招待客全員の名前と顔が一致しているのか。さすがというか、恐ろしい記憶力だ。
「株式会社ミカゲ取締役の咲川彰宏様です」
 その会社名にハッとする。十何人目かに紹介されたのは、三十代半ばの男性。
「おめでとうございます、洸香さん」
「ありがとうございます」
 カッチリした黒スーツにワインレッドのネクタイ。人当たりの良さそうな笑顔には余裕がにじみ出る。知的で仕事の出来そうな雰囲気を纏い、加えて細身で整った顔立ち。さぞかし異性にモテることだろう。
 まぁ、もちろんそんなことには興味はなくて、気になるのは別のところなんだけれど。
「……御影市の会社なんですか?」
「いえ、実は祖父の名前なんです」
「まぁ、それは失礼いたしました」
「大丈夫です。よく言われますので」
 違うか。そりゃ、そんな簡単にはいかないよな。考えの甘さに自嘲して、それでも念のため、もう一度観察の目を向けると、
「――っ」
 予想外に鋭い視線がこちらをとらえていた。パーティが始まってから挨拶を交わした大多数のような品定めの視線とは違う、見抜くような、射貫くような。
 招待客には親戚もいるものの遠縁ばかりで、しかもその関係の取引先なんかが多く、誰も塔崎洸香に会ったことはない。だからバレるはずはない。上司からの伝聞を頭の中で繰り返して落ち着かせようとした心臓は、それでも徐々に鼓動を早めていった。
「――どうかされましたか?」
 不意に上司が割って入る。視線が外れ、小さく安堵のため息を吐いた私に、咲川はふっと表情を緩めた。
「……いえ。お疲れのようですね。そろそろお休みになったほうがよろしいのでは?」

     *

 ドアの前で上司と別れ、あてがわれた部屋に入ると、長ソファに身体を投げ出す。
「あ――、疲れたぁ」
 天井をぼんやりと眺めていると、独り言が口をつく。
「パソコンくらいじゃ安かったかなー……」
 今回の件で特別手当てを出すと言った上司に、動かなくなった自宅のパソコンの買い替えを約束させた。安上がりのように思わせて思い切りハイスペックなも のでも要求してやろうかと考えていたけれど、この分ではサーバでも買ってもらわないと割に合わないんじゃなかろうか。……いや、要らないけど。
「はー……」
 長いため息を吐き出すと、ソファに身体が沈み込んでいく。
 さすがお嬢様の身代わりといったところか。ロイヤルスイートの客室は広々としていて、並ぶインテリアも品格が漂っている。片隅に置かれた自分のスーツ ケースがみすぼらしく見えるくらい。一泊いくらなんだろうな……なんてぼんやりと考える。備え付けのパソコンでインターネットは使えるらしいが、調べる気 にもならない。
 この客船を船ごと貸切にして行われる一人娘の誕生パーティ。おそらく億単位の金が動いている。そりゃあ開催三日前に届いたいたずらかもしれない紙切れ一枚ではキャンセルなんぞ出来ないだろう。
『遠縁の偉そうな爺様方から二十歳の誕生日は盛大にやるように言われたらしいよ』
 どうやら塔崎夫妻も最初から乗り気ではなかったらしい。年だけ食った親戚連中に食い下がられて仕方なくだそうだ。夫妻にすればやりたくもないパーティは 開かないといけないわ、開いたら開いたで殺人予告されるわ、かわいそうに踏んだり蹴ったりだ。犯人もどうせならもう少し早く脅迫状を送ってくれていたらよ かったのに。

「…………」

『協力して、あかりちゃん』
 あの時、上司はそう言った。
 今回請け負った依頼内容は、塔崎家の一人娘、塔崎洸香の身代わりおよび犯人探し。というか、一応犯人探しがメインか。腐っても、うちは探偵事務所なんだから。
『塔崎洸香に――君に会いに来る人物に怪しい奴がいないか。単純に印象だけでもいいから教えて』
 初めての社員旅行は、初めてのスケープゴートになり、そしてあのセリフで初めての潜入調査になった。いや、潜入と呼ぶには立ち位置が目立ちすぎだが。

『あの人には、気づかれたかもしれません』
 咲川のことでそう伝えたが、上司は、そうかもね、と短く答えただけだった。
 彼は憶測を口に出さない主義だから、何も言えなかったのかもしれない。そう、確証をつかむまでは。
 私と別れた今、あの人は何か行動を起こすのだろうか。よくある小説なら、主人公はこれからどうするんだったか。

『誰が来ても、絶対ドアは開けないで』
 誰の声も聞こえない、ひとりだけの部屋。つい数分前この部屋の前で言われたセリフが頭の中で繰り返される。
 それは、自分が殺される可能性があるということを思い出すには十分なもので、わずかにまた鼓動が早くなるのを自覚する。

――大丈夫。何も、起こるわけない。

 臆病者、と自嘲して、一度短く息を吐いた。気合いを入れて、沈み込んだ身体を起こす。
 食欲はないけれど、何か温かいものでも飲んで眠ろう。眠ってしまえば、こんなことも考えずに済む。
 立ち上がったその時。

 インターホンの呼び出し音が響いた。

「……っ」
 心臓がひときわ大きな音を立てて、身体が跳ねる。
――落ち着け。
 上司と別れてから五分程度だ。何か言い忘れがあって戻ってきたのかもしれない。
 インターホンにはカメラが付いていたはず。まずは確認してみればいい。
 絨毯の上をそろりそろりと歩く。出来るだけ足音を立てないように。そんなことをしなくても、ドアの外には聞こえないのに。
「…………」
 モニターボタンを押すと、カメラの映像と向こう側の音声が室内に流れ込んできた。通話ボタンを押さない限りこちら側の音は伝わらないけれど、やっぱりなんとなく息を殺してしまう。
――……誰だっけ。
 映し出されたのは見覚えのある男性。パーティで挨拶を交わしたうちのひとりだ。正直印象が薄くて名前は覚えていない。
『あれ? 洸香さーん?』
 二度、三度と押される呼び出しボタン。
 思わず眉をひそめる。うるさい。デリカシーのないやつめ。
『戻ってきたんじゃなかったのか、あの野郎』
 ここは居留守を決め込もう。酔っていそうだし、インターホン越しでも関わり合いになりたくない。もちろん上司に言われるまでもなく、ドアを開ける気はない。
 そうだ。例え誰かが私を殺そうとしていても、ここの高級感あふれるドアが守ってくれる。木製だがさすがに斧は持ってこないだろうし、指示通りドアを開けさえしなければ大丈夫だ。
 それに気づくと、私の心臓は少し落ち着きを取り戻した。
 そして、それから一度だけ呼び出し音を響かせると、インターホンも沈黙した。

――問題は、来訪者がそのひとりでは済まなかったことなのだけれど。

「…………ふぅ」
 ドアの前で、ため息をひとつ。
 順番でも決めているのか、入れ替わり立ち替わりで五人目の来訪者が去り、また静寂が訪れる。時刻は午後十時を過ぎたところ。もうとにかく無視して寝てしまおう。文句なく疲れているし、寝室はセパレートだからインターホンの音も少しはくぐもって聞こえるだろうし。
 それとも、次に来た奴に「いい加減にしろ」と怒鳴りつけてやろうか。あぁ、それはいいかもしれない。上手くいけば後続もなくなるだろう。怒らせたところで、どうせ誰もこの部屋に入ってくることは出来ないんだから。
「――ん、」
 声を出す予定が出来ると、急に喉が痛んだ。強めの空調のせいか、声を押し殺していたせいか。部屋の中央まで歩を進め、テーブルの上のグラスに手を伸ばす。中身は冷蔵庫にあったミネラルウォーター。
「……あ」
 手が届く寸前、私は気づいてしまった。
 グラスと一緒に目に入ったのは、傍らに置かれた自分のスーツケース。
 乗船手続きの時に預けたこれがここにあるということは――いや、そもそも当たり前のことなんだけれど――私以外でもこの部屋に入れる人間が居るということだ。
 つまり、この船の乗務員、もしくはマスターキーをどうにかして手に入れることが出来た人間は、いつでもここに押し入れる――

――駄目だ。ここも全然安全じゃない――!

 おさまっていた心臓の音が再び早さを増した時。
 また、呼び出し音が響いた。

     *

 呼び出しボタンを押したのは、咲川だった。
「――」
 考えすぎだと思いたいのに。映し出された映像に、ぞくりと、背中を冷たいものが駆け抜けていく。何故か随分と冷たく感じる、その表情。
『洸香さん、いないんですか?』
 薄笑いを浮かべて囁くようにそう言いながら、咲川はコツコツとドアを叩いた。
 まるで、ドアのこちら側で私がモニターを見ていることを確信しているように。
『中で倒れていらっしゃるわけじゃないですよね?』
 まるで、押し入られたくなければ自分から開けろと、最後通告するように。

――この人が、脅迫状の犯人?

 ドアは外開きだ。押さえても意味がないし、引いても力負けしてしまう。非常時の対策なのか、チェーンもない。
 この部屋の中で鍵が掛かるのはトイレかバスルーム。逃げないといけないのに、足がすくんで動けない。ただ自分の危惧を行き過ぎた妄想だと言い聞かせて、モニターの前で立ち尽くすしかない。
 ポケットからカードキーを取り出してカメラにかざしてみせるその仕草は、まるで映画を見ているようだった。

 薄笑いの顔がカメラの死角に入って数秒後、カチャリとドアが音を立てる。
「やぁ、洸香さん。ご無事でしたか」
 言葉を失っている私に向かって、わざとらしい笑顔を貼り付けて。
 咲川は、スローモーションに見えるほどゆっくりと一歩、こちらとの距離を縮めた。

――あーあ。酷いなぁ。
 自分の運の悪さに、心の中で苦笑する。
 確かに、名探偵は死なない。巻き込まれて危ない目に遭うのはいつも周りの人間だ。

 城ノ内さん。推理の苦手なあなただけれど、私が死んだらちゃんと犯人を見つけてくれますか?

「怖がらなくていいよ。痛くしないから」
 猫撫で声で言いながら、ポケットから取り出したのは安っぽく光るバタフライナイフ。
 切っ先がこちらを向いた瞬間、思わず強く、目を閉じた。さらに一歩近づく、靴音。
 ――その後ろにあるもうひとつの気配に気づいたのは、その時だった。

「それ以上近づくな」

 随分と低いトーンだったけれど、それは確かに聞き慣れた声。
 ドアの閉まる音に反射的に目を開けると、そこにあったのは、大きくのけぞる咲川の身体と、――その後ろ襟を掴んで冷ややかな笑みを浮かべる上司の姿。
「……っ」
 助かったという感覚より先に、目の前の光景に息を呑む。
「あぁ、お嬢様。ご無事でなにより」
 絶句している私に気づくと、上司はにっこり笑ってそう言った。ここまで安心できない笑顔は初めてだ。構図的に。
「そういうおいたはいただけませんね、咲川さん」
 何が起こったかわからない様子の咲川だったが、首筋に当てられた冷たい感触で自分の置かれている状況は理解したのだろう。結局、床に倒され、上司のネクタイで後ろ手に縛られるまで、抵抗らしい抵抗はしなかった。
 奪い取って得物にしていたナイフを私に預けると、上司は縛ったままの咲川を空き部屋へ押し込み、どこかへ電話を掛けた。相手は塔崎氏だろうか、ひとことふたこと話したあと、咲川の居る部屋番号を伝えて電話を切ると、
「お疲れさま。散歩でもしよっか、あかりちゃん」
 そう笑いながら、放心状態の私の頭に手を置いた。

     *

「……わ、」
 屋外に出ると、声が漏れた。思ったより風が強い。とっさに押さえた偽物の髪が、指の隙間から空中へ逃げ出そうとするように激しく舞う。
「気をつけて」
 あんなことがあったばかりだから、まだ足元がおぼつかない。私がほんの少しバランスを崩すと、部屋を出た時から繋がれたままの手に力が込められた。
「…………」
 わかってやってるんだろうか。
こうしているのは恥ずかしいけれど、先ほどの恐怖が蘇るたび、手のひらの温かさに安心する自分が確かに居た。
 それでいて別の意味で心臓の音がうるさくなるのは、吊り橋効果というものだろう。
 危ないところを助けてくれて、落ち着くまでこうして付き合ってくれている。感謝してもしきれない。まぁ、それもこれも巻き込んだ上司のせいだという点を差し引くと、限りなく0点に近いのだけれど。

 夜だからか、プロムナードデッキも屋外には誰も居なかった。
「タイタニックごっこでもしてみる?」
「……沈没させる気ですか?」
「いやいや、両腕広げるほう。船首には行けないけどね」
「しませんよ。今手離したらヅラが飛びます」
「ふはっ、確かにそうだ」
 冗談を交わしながら、船尾デッキにたどり着く。風は少し緩やかで、これなら頭から手を離してもよさそうだ。遠く楽しそうな声が聞こえるけれど、ここにも人の姿はなかった。正直、ホッとする。今は誰とも会いたくない。
 穏やかな散歩道は、あと半分。
 散歩が終わればあの部屋にひとりで帰らないといけない。私が殺されかけた、あの部屋に。
「……っ」
 また思い出しそうになって、目を閉じる。
 大丈夫だよ、臆病者。さっきだって何もされてないくせに。
「あかりちゃん」
 上司が私の名を呼ぶ。
「――っ?」
 ふわりと、温かい感触に包まれた。
 後頭部に触れる手。抱きしめられているというにはあまりにも弱い。壊れ物に触るように、そっと引き寄せられる。
 泣いていると、勘違いされたのだろうか。
「ごめん」
 耳元で、声が言う。
「やっとですか? 遅すぎですよ」
 そのまま本音ではあったけれど、茶化すような口調で言った。上司の声が、あまりにも真面目なものだったから。
 区切りを付けるように、ふっと息を吐く。
「でも、もう終わったんですよね」
 犯人は捕まった。それなら、もうおびえることもないじゃないか。
 けれど、上司の答えは。
「ごめんね。まだだよ」
「……え?」

「あいつは、犯人じゃない」

「だって、じゃあ」
 あれは、なんだったのか。
 嘘でも冗談でもないその声音に、困惑を隠せない。
 そんな私に、身を寄せたまま、非常に言いづらそうな声で彼は答えてくれた。
「……君の部屋に行った奴らの目的はみんな一緒なんだよ、咲川も含めてね」
「一緒……?」
 何を言っているのかわからない。彼はくすりと苦笑を漏らした。
「気づかなかった? この誕生パーティの目的」
「目的?」
「親戚が誕生日にわざわざ口出しする理由、立食形式の食事、挨拶に来るのはどこぞのボンボンばっか。乗り気じゃなかった両親と、嫌がっていた娘」
「…………?」
 羅列されるヒント。どこか違和感を覚えたけれど、それが何かはわからなかった。
「それから、夜遅く君の部屋にひとりずつ押しかける男ども」
 けれど、それらの言葉から確かに浮かび上がってくるのは――
――そういうことか。
「っと、大丈夫?」
 全身から力が抜ける。崩れる身体を、上司が慌てて支えてくれた。
「……そっか。要するに、体のいいお見合いだったんですね」

 咲川は私を殺すつもりなんてなかった。考えてみれば確かに、殺人目的の凶器がバタフライナイフひとつでは頼りない。本来の目的はそれはそれでおぞましいのだけれど。
 襲われかけた事実に変わりはないのに、あれが殺人未遂じゃなかったというだけで、恐怖は単純な嫌悪感に変わり、張り詰めていたものが緩むのを感じた。
 致命傷を負うのは最悪一瞬のことだ。けれど相手の目的が命じゃないなら、それだけの――助けてもらえるだけの時間がある。そう思える程度には、私はこの人のことを信用しているのだ。
「そういうこと」
 私の回答に短く正解を告げて、やっと上司が身体を離す。
「ちょっとは落ち着いた?」
「はい。まぁ、なんとか」
「じゃ、戻ろっか」
「……はい」
 デッキをまた半周して、屋内へと足を向ける。
 夜風は気持ちいいと言うには強すぎたが、不安のほとんどを吹き飛ばしてくれた気がした。

 そして私たちは、もと居た部屋までたどり着く。途中通り過ぎた、先ほど咲川の押し込まれた部屋からは何も物音がしなかったが、いろんな意味で怖いので何も聞かなかった。罪悪感に苛まれるのは御免なので合法的に処理されることを祈るばかりだ。
「じゃあ、おやすみ」
 開けたドアを片手で支えながらぽんぽんと私の頭を撫でて、上司が短い挨拶を口にする。
「……あの、城ノ内さん」
 背を向けようとした彼の、シャツの袖口をごく軽く引っぱった。
「ん?」
「…………」
 言いたくないと、口唇が拒否する。妙な負荷が掛かって喉が痛い。頬が熱い。思わずうつむいてしまう。羞恥に涙ぐみさえする。それでも、今はプライドよりも優先するべきことがあった。
 意を決して、顔を上げる。
 夜風がただひとつ、吹っ飛ばしてくれなかったのは。

「……ひとりにしないでください」

 犯人は、まだ捕まっていない。なら、もう一度あんな目に遭う可能性がないとは言えないのだ。もう一度――それだけは嫌だったから。
 我ながら蚊の鳴くような声で、そんなわがままを口にした。

「……しょうがない子だね」

 ともすれば勘違いされかねないセリフ。
 けれど、上司は下卑た冗談も言わず、茶化しもせずに、小さく肩をすくめて、困ったような顔で笑ってくれた。
 頬の熱は消えないけれど、聞き入れてもらえたことにホッとする。
「じゃあ、お邪魔しようかな」

 彼がドアを閉め、入り口の空間が薄暗くなる。

――……?
 今、ほんの一瞬だけ、上司の口元に悪人の笑みを見たような気がしたのは、気のせいだろうか。

     *

「うわ、さすがロイヤルスイート」
 部屋の中に入ると、上司は物珍しそうに部屋を見回した。
「城ノ内さんの部屋は違うんですか? 隣ですよね」
「一応付き人役だからね。お嬢様の近くには居なきゃいけないけど同じレベルの部屋には泊まっちゃ駄目でしょ」
「はぁ、そういうもんですか」
「つっても、スイートだから立派なもんだけどね。面積的にはここの半分くらいかな」
「そうなんですね。……正直、私はここ広すぎて落ち着かないですけど」
 言いながらリビングスペースを眺める。誰かを招いて歓談することが出来るその空間は、私にとって不必要なソファやテーブルがいくつか置かれている。
 セパレートの寝室、洗面、ウォークインクローゼット。もちろんバスルームやトイレも。それらは、ここからは見えない。この部屋の造りそのものがひとりで帰ってきたくなかった理由のひとつだった。
「誰かが、隠れてそうで?」
 長ソファに腰を下ろして、上司はさらりと言い当てる。
「……はい」
 この部屋は、死角が多すぎる。咲川にしても、私の居ないうちに忍び込まれていたらどうしようもなかった。またぞくりと背筋が寒くなる。これ以上弱いところを見せたくなくて、軽く目を閉じてやり過ごした。
 上司の向かい側、ひとり用のソファに腰掛ける。テーブルの上、水の入っていたグラスを片付けて、新たに並べたふたつのグラスに冷蔵庫に用意されていたオレンジジュースを注ぐ。
「どうぞ」
「ありがとう」
 小さく、互いのグラスをぶつける。なんの乾杯だか。時刻は午後十一時を過ぎていた。
「インターホン、鳴らなくなりましたね」
 安心したような、拍子抜けしたような。ぼそりと零した言葉に、上司は意味深に笑う。
「ま、そりゃそうだろうね」
「……城ノ内さん、何かしたんですか?」
「あかりちゃん。あいつらがなんで応答もしないお嬢様が部屋に居るって確信してたと思う?」
「……え?」
「見張りが居たんだよ。ここの斜め前の部屋。下っ端にやらせてたみたいだね」
「…………」
 そういえば一人目が誰かに悪態をつくようなセリフを呟いていた気がする。
「他の奴らは上のカフェに居るよ。夜這いゲームで君に無視された奴らとこれからの奴ら。見張り役が電話で言ってたし、声も聞こえたからね。……ここまで言ったらわかるかな?」
「……見てたってことですか? 咲川さんのこととか、さっきここに城ノ内さんが入った時も」
「あれ、それだけ?」
 試すような物言いに、少しムッとする。
 もちろんそれだけじゃない。思い当たるのは、もうひとつ。
 けれど、それを計算だったと考えるのは、悔しい気がした。
 この人を、単純にいい人だと思った自分が馬鹿みたいだから。
「……船尾でのあれは、慰めてくれたんだと思ってました」

――結局全部、この人の手のひらの上か。
 声が聞こえた、と彼は言った。一体どこでかは考えるまでもない。私にも覚えがある、船尾デッキで微かに聞こえたあの声。階上にあったのはオープンデッキで過ごせるカフェ。そして、そのオープンデッキからは、――階下の、私たちの居たところが見えるのだ。

 あの時のことが見られていて、そして、どうやら上司の計画通り酷く勘違いをされている。
「慰めたかったのも正解だよ。俺の責任でもあるんだし。でもそれより、一晩中緊張して過ごしたくはないでしょ?」
「いいんですか、そんな勘違いさせて」
 お嬢様落としゲーム参加者の頭の中では今、こういう構図が出来上がっている。
 塔崎洸香は咲川に襲われかけたあと、誰も居ない船尾で付き人と抱き合い、そして、その付き人とふたりで仲良く自室に戻った。つまり――塔崎洸香は、付き人とデキていると。
 自分が恥ずかしいのはともかくとして、ただ自分たちの安眠のために、依頼人の娘さんにそんな噂をでっち上げるのはいかがなものか。
「いいんだよ。あとでバラせばいいだけなんだから」
「……バラす、んですか?」
「見合いをさせたかったのは遠縁の爺さん連中だけ。自分の傘下の人間にお嬢様を落とさせて、本家の力を取り込みたかったんだろうね。けど、当然塔崎夫妻に そんな気はないし、洸香嬢本人も嫌がってる。身代わりを立てたことについての言い訳は、災い転じてなんとやらで脅迫状があるし、未遂とはいえ実際に不埒な 輩も現れた。ここまで揃ってる状態で妙な噂を否定するなら別人だったってバラすのが一番手っ取り早いでしょ」
「……なるほど」
 納得する。しかしまた、どこか違和感。
「だから、最初からご自由にって言ってたんだよ。その場でバレるようなことさえなけりゃどうにでもなるから」
 そういえば塔崎夫人から確かにそんなことを言われた。楽しんで、とも。殺人予告をいたずらだと思っていたにしても、振る舞い方なんかを指導することもせずに随分と悠長だと思っていたが、そういう意味があったのか。
「明日は多分誰も寄ってこないだろうから、朝食はゆっくり食べられると思うよ」
「それは……ありがたいですけど」
 それでも上司共々妙な注目を浴びるのは必至だ。咲川の件は伝わっているはずだが、下手すれば塔崎夫妻にも生暖かい目で見られるだろう。
「なんか恥ずかしいんですけど、どうにかならないんですか?」
「無理。今から別の理由作るのも面倒だし」
 バッサリと切り捨てた彼は、眉を寄せた私の顔に苦笑する。
「そんな気にしなくても、いつもと大して変わんないでしょ?」
「まぁ、そうなんですけど……」
 確かに仕事上で妻役を演じることはある。けれど、その場しのぎで彼の出任せに合わせるだけのあれとは違う。勘違いされている上に、大っぴらにではないにせよ直前に一夜を供にした恋人を演じなければならないのだ。この人と。
 渋る私に、上司が小さくため息を吐く。グラスを置き、立ち上がって距離を詰めてくる。
「……なんですか」
 警戒する私に、
「恋人の振りがそんなに恥ずかしいなら、振りじゃなくしてみるのも手かな」
 小馬鹿にするように目を細めて、そんな言葉を囁いてきた。
 挑発とも脅しとも取れるそのセリフ。こちらもため息をひとつ吐いて、彼を睨み上げる。
 わかってますよ。やる以外選択肢がないってことは。
「結構です! わかりましたよ。立派に恋人演じてみせますっ」
「上等」
 やけくそ気味の私の返答に短い言葉を返して上司は長ソファに戻り、グラスの中身を飲み干した。私の扱い方は心得ているとでも言いたげなその余裕が腹立たしい。
 よほど不機嫌が顔に出ていたんだろう。上司は私の顔に苦笑して、ちらりと時計を確認した。
「お風呂入っといで。その間に寝室チェックしとくから」

     *

「じゃあ、おやすみ」
 ひらひらと手を振る上司におやすみなさいと挨拶を返して、静かにドアを閉める。
 向こう側の音が聞こえなくなったのを認識すると、ふたつあるベッドの奥側へ、ぼすんと勢いよく身を沈める。さすがに同室で寝るわけにもいかず、念のためもあって上司はリビングスペースのソファで寝ることになっていた。
――……疲れた。
 今日は色々あったから眠れないかもしれないと思っていたけれど、色々あったからこそなのか、心地よい弾力のベッドへ吸い込まれるように意識が薄らいでいく。
――……咲川さんは、本当に犯人じゃなかったのかな。
 疑問が頭をよぎる。本当に他に犯人が居るのだろうか。考えてみれば、咲川の口からは何も聞いていないのだ。凶器についても、頸動脈でも狙うつもりならバタフライナイフでも十分なんじゃないか?
『あいつは、犯人じゃない』
 あの時、上司は断言した。憶測を口に出せない上司だけど、嘘をつかないわけじゃない。あれは殺人未遂じゃなかったんだと、ただ私を一時的に安心させるための嘘だった可能性はある。
――そうか。だからあの時、笑ったのか。
 この部屋のドアを閉めた時、彼は確かに笑っていた。それは、あまりにも私が思い通りに動いたからじゃないのか。
 上司はお嬢様落としゲームが繰り広げられている間、おそらく隣の自室でこちらの様子をうかがっていた。彼のことだから盗聴器やカメラなんかも仕掛けてい たかもしれない。それでも正直、手間だったろう。それが面倒になったから、彼は船尾デッキで例の『安眠出来る方法』を実行に移した。でも、実際はそれだけ じゃ足りない。部屋の前で別れれば、お嬢様はひとり。結局、ゲームが再開される可能性は残るのだ。
 そこで彼の取った対策は――この部屋に自分が入り込むこと。
 他に犯人が居ると脅せば、私はひとりになることを怖がる。それがわかっていたから、だから私が自分から彼を引き留めるように、犯人をでっち上げた――?
「……はは」
 乾いた笑いが漏れた。まさか。考えすぎだ。
 だってそれじゃあ、私はあの時やっぱり殺されかけたことになる。
――考えるな。
 例えそうだったとしても、大丈夫。それならやっぱり咲川が囚われた今、お嬢様の命を狙う者はもういないということだから。
――大丈夫。
 それに、今はひとりじゃない。このドアを開ければ上司が居る。
 シーツに潜り込み、ゆっくりと目を閉じる。
『きっちり守って差し上げますよ、お嬢様』
 上司の言葉を呪文のように頭で繰り返すうち、疲れ切った身体はあっけなく、深い眠りに落ちていった。

     *

 翌朝。
 意識の向こう側で呼び出し音が鳴った気がして、けれど疲れの残った身体はまだまだ寝ていたくて、そのまままどろんでいると、突然例のゴツいメイド姿が目の前に現れた。
「おはようございます、お嬢様。お疲れのところ申し訳ございませんが、ご準備を」
 ぼんやりと身を起こすと、続いて入ってきた昨日の改造部隊の女性たちが私を担ぎ上げ、着ていたTシャツとハーフパンツをはぎ取りながら、リビングスペースへと運び出した。
「ちょっ、自分で出来ますから! って、城ノ内さんは!?」
 えらく強引にあられもない姿にされて、思わず上司の姿を探す。
「ご安心を。殿方には出ていただきました」
「そうですか……」
 ホッとしながら、大人しくなされるがままに改造を受け入れる。
 本日の衣装は、シンプルなオフホワイトのワンピースにシフォンのボレロ、一粒ダイヤのネックレス。昨日に比べれば随分と可愛らしい格好だ。最後にまたウィッグをかぶせられ、完成。
「朝食は上の階のダイニングです。皆さんもう始めておられますから急ぐ必要はありませんけど」
 いかにも大急ぎの体で無理矢理脱がしたにも関わらず、そんなセリフで爽やかに笑うと、女性たちは私を部屋の前に待っていた上司へ文字通り押しつけ、手を 振った。邪魔者は消えますと言わんばかりにそそくさとドアを閉めた瞬間、何人かは明らかに意味ありげに、ニヤニヤと笑っていた。
「…………」
 からかわれた。しかも、しっかり勘違いしたうえで。
「……あー、はは。なんか、確かに困るね」
 困った顔で笑う上司に、諦めと覚悟の意味を込めて短く息を吐く。
「行きましょうか」
「ん。ラストスパート、頑張ろ」
「イエッサー」
 パン、と。かざされた手のひらに、半ば投げやりに手のひらをぶつける。
 ハイタッチした右手はそのまま掴まれ、仲良く手を繋いで上階のダイニングに向かった。
「……そういえば」
 ふと昨日の疑問が頭をよぎる。
「ん?」
「真犯人、わかったんですか?」
 悩んだ末、ダイニングに入る寸前に、そう聞いた。それは本来最優先すべきことだ。
「――わからなかった。多分、いたずらだよ」
 上司は目を合わせずに答える。
「じゃあ、行こっか」
 この話題を終わらせたいみたいに、前を向いたまま一歩踏み出して。
「……はい」
 その答えは本当なのか、それとも嘘なのか。
 残念ながら、私には知るすべがなかった。

     *

 それから帰港までの三時間。
 上司の言ったとおり短い挨拶以外に私に近づく者はなく、穏やかに過ごすことが出来た。
 たまに視線を感じながら、たまに耳元で冗談を囁かれ、笑い合う。それはそれは仲のいい恋人同士のように。
 そしてついに、上司の口から真犯人判明の報告を聞くことはなかった。

「体調崩したってことにするらしいから、下船の時の見送りは居なくていいってさ」
 晴れてお役御免になった私たちは元の姿に戻り、念のため人が居なくなってから最後に船を下りることになった。まぁ他の客と違って直接的なビジネスの話もあるわけだから、バレるバレないは別としてそのほうがいいのだろう。
 連絡を受け、エントランスに着いた時には、周りは静かなものだった。人払いをしたのか、塔崎夫妻の他には誰も、乗務員すら居なかった。
 こちらに気づくと揃って頭を下げる。
「……?」
 何故か傍らのミニテーブルに、真っ赤な薔薇の花束が置かれている。なんでこんなところに。小さな疑問に首をかしげていると、視線に気づいたのか、
「園田さん、花がお好きでしたらお持ちになりますか?」
 塔崎氏が貫禄ある笑顔で花束を手に取った。
「えっ? いや、」
 物欲しそうに見えたのだろうかと慌てていると、
「あなた」
 夫人が咎めるように彼の腕を引いた。
「縁起が悪いからおやめになったほうがよろしいわ」
 さらに私に向き直ってそう言う。どういう意味かはわからないけれど、柔らかでいて強い口調。なんとなく尻に敷くタイプだと確信した。
「乗務員から渡されたんです。……咲川の部屋にあったものですって」
「あぁ、はい。すみません、要らないです」
 思わずぶんぶんと首を振ると、夫妻ばかりでなく上司にまで笑われた。
 冗談交じりにふてくされた顔をしてみせる。ほんの少しの恥ずかしさに視線をそらすと、ばさりと若干乱暴にテーブルに戻された花束から、真紅の花びらが二枚、ひらりと舞い落ちるのが見えた。

――……あれ?
 なんだろう。今何か、思い出しそうになったのに。

「お支払いは後日。請求書送ってもらえますか」
 とん、と上司に背を叩かれ、我に返る。請求書の発送は、今は私に任された仕事だ。慌てて営業スマイルを作る。
「……っ、はい。ありがとうございます。早急に送らせていただきます」
「お願いします」
「園田さんも、怖い思いをさせてごめんなさいね」
 塔崎夫人が申し訳なさそうに眉を寄せる。その言葉が意図するところは、咲川の件だろう。
「……いえ。娘さんが無事でよかったです。脅迫状の件にしても、」
「それでは、僕たちはこれで」
 にこやかに、上司が私の言葉を遮った。促すようにごく軽く私の腰に手を回す。
 不自然に話を切り上げようとするその行動に、不信感を覚えるより早く、
 ――真実は、明かされた。

「本当に。私たち、まさか脅迫状があの子の仕業なんて思いもしなくて」

 塔崎夫人の言葉に、城ノ内探偵事務所のふたりはまとめて凍り付いた。
――あの子の、仕業?
 今の言い方は、明らかに咲川のことじゃない。この場合の『あの子』はもちろん自分の娘、塔崎洸香を意味する。
 つまり、今塔崎夫人が言ったのは。脅迫状を送ったのは塔崎洸香本人で、そして、このふたりはそのことに気づいていなかったということだ。

――あぁ、そういうことか。
 上司の言葉で感じていた違和感。そして赤い花びらで思い出しそうになったもの。


 パズルは、組み上がる。

 ちらりと視線をやると、そこには貼り付いたような笑顔の上司。わずかに眉間に皺を寄せながら、ごく控えめに、しかし切実に『それ以上しゃべってくれるな』と、神にでも祈るかのような視線を夫人へ送っている。そして、その目は決して私を視界に入れようとはしない。
「夕べ城ノ内さんに言われて、確かに可能性があると思って。今朝、やっと電話がつながって、あっさり白状しました」
 よほど空気が読めないのか、それとも相当なくせ者なのか。塔崎夫人は非常に優雅な笑顔で、城ノ内紘に追い打ちを掛ける。
「……そうですか。それはよかったです。ね、城ノ内さん?」
 ごく穏やかに笑いながら、死んだ魚のような目つきになっている上司の袖を引いた。
「そろそろお暇しましょう」
「あぁ、すみません。引き止めてしまって」
「本当に、ありがとうございました」
 夫妻がまた頭を下げ、上司がハッとしたように仕事用の笑顔に戻る。
「いえ、こちらこそありがとうございました」
「何かありましたら、どうぞまた城ノ内探偵事務所にご依頼ください」
 上司の言葉にそう付け足し、私たちは船をあとにした。

     *

「…………」
 建物から外に出ても未だ、袖は掴んだまま。
 すれ違う人々の中にはちらりとこちらを気にする人もいた。くすくすと笑い合うカップルも。端からは手を繋ぐのを恥ずかしがっている初々しいカップルにでも見えているのだろうか。
 人気のないところまでの辛抱だ、と握りしめ直した袖。許容範囲の人通りになった時にはもう既に深い皺が刻まれていた。

「城ノ内さん」
「……んー?」
 平常心を装ってはいるけれど、彼はまだこちらを見ようとはしない。面倒なので、率直に問う。
「塔崎洸香とはどういったご関係ですか?」
 思ったより低い声が出て、空気が凍った。
「……やだなぁ、それってやきもち?」
 貼り付いたような笑顔でやっとこちらを振り返った上司は、額に脂汗をにじませながら、そんなふざけたセリフを口にした。
 袖から、手を離す。
「そう、思いますか?」
 力一杯の笑顔で。
 私より二十数センチ背の高い彼を見上げて。
 そして、ゆっくりと、視線の先へ手を伸ばす。

『嫌がっていた娘』
『洸香嬢本人も嫌がってる』
 違和感の原因。上司は確かにそう『断言』していた。推測を口に出さない彼がそう言った。それはつまり、――上司は彼女を知っているということだ。

「あ、あかりちゃん?」
 焦る上司の呼びかけは無視して。
 ネクタイの小剣を静かに掴む。昨日のものとは違う深い青色の布が、私の指をしゅるりと撫でる。上司の目をじっと見つめながら、ゆっくりゆっくりとウィンザーノットの結び目を滑らせる。
「本当に、やきもちだと思うのかと、聞いてるんです」
「――!! ちょっ、待って! ごめんなさい、嘘です嘘です思いません!」
 徐々に首が絞まっていく感覚に、上司は慌てて謝罪する。結び目から手を離してやる代わりに大剣を握りしめ、力一杯引いて頭ひとつ分の距離を縮めた。
「ったく、毎回毎回! なんで重要なことに限って私に隠すんですか!」
「いや、お嬢様と連絡取れなくて確信持てなかったんだって! 茶番だって思ったら君やってくれないかもしれないし!」
「それくらい仕事ならやりますよ! 確信持てなくても予想ついてるなら私にくらい教えてください! 回りくどい真似して、どんだけ怖かったと思ってんですか!」
「だから悪かったって……」
 ほんの一瞬周りを気にする仕草をして、彼はネクタイから手を離させようとする。指先が触れた瞬間、苛立ち任せにその手を振り払った。
「……信っじらんない」
 怒りを込めて吐き捨てる。悔しさや理不尽さや安堵や。その他色々が入り混じった感情にぐるぐると思考をかき回される。背を向けた私の耳に、上司の苦笑が届いた。
「昨日の夜、十時前にやっと連絡取れたんだよ。一応君にも言おうかと思ったけど、そのすぐあとに咲川のごたごたがあったから」
「……でも、それなら船尾の時にはやっぱりもうわかってたんじゃないですか」
「警戒解かないでほしかったからね。ごくまれにストーカーもどきが居るって話は聞いてたけど、咲川みたいなのはさすがに想定外だったし。見張りも黙って見てたってことはみんな同類だよ。他に居ないとは限らないでしょ」
「……っ、それは」
 それは確かに警戒したほうが身のためだったのかもしれないが。でも、それにしたって、殺人と思わせなくても。――あぁ、いや、そうでなければいけなかったのか、部屋に招かせて面倒を省きたい上司にとっては。
――……はぁ。
 収まりはつかないけれど、心のどこかで諦めが生まれた。もういい、面倒くさい。
 私はため息をひとつ吐き出して、先ほどの質問をもう一度口にする。
「……で、お嬢様とはいつから?」
「一年くらい前から知り合い。お嬢様、御影のオフィス街でバイトしてるんだよ。ちっさい喫茶店。親に内緒でね」
「それで単純にバイト帰りに出したってことですか、脅迫状」
「だろうね」
 上司はゆっくりと歩き出す。隣を歩きながら、私は質問を続けた。
「それで、いつから知ってたんですか? お嬢様の仕業だってこと」
「いつだと思う?」
「……少なくとも、塔崎夫妻からの依頼を受ける前、ですよね?」
 思い浮かべたのは、二枚のチケット。薔薇の花びらと同じ真紅のそれに印刷されていたのは、確かに『豪華客船ツアー』の文字だった。同じ時刻に出港した船 はないのに、チケットの時間も私たちの乗ったものと同じ。つまり、呆れてものも言えないけれど、あれは私を騙すためだけに作られたものなのだ。
 昨日を基準にして脅迫状の投函は四日前。依頼を受けたのは三日前。――なら、三日前に見せられたあのチケットは一体いつ作られたのか?
 少なくとも依頼が来る前に知っていたのだ。情報の出所は、おそらく脅迫状を投函する前の、塔崎洸香。
「……正解って言えば正解だけどね。言っとくけど、脅迫状送るなんてのは聞いてなかったよ。行きたくないからって身代わり頼まれただけ。君の話はしたことあったし、依頼は親から行くようにどうにかするからって」
 それで脅迫状か。とんでもないお嬢様だ。まぁ、単に行きたくないというだけでは聞き入れてもらえなさそうなのはわかるけれど。
「……いや、でも、そんなことならわざわざ探偵に依頼しなくても」
「一応、前のストーカーの件があって、また怪しい奴が出る可能性もあったからね。その他親戚関係の情報提供も込み。あ、もちろん咲川の上に居た親戚の爺さんは色々剥奪されて塔崎家追放されるよ。――ん、」
 唐突に、上司が言葉を止める。同時に、こちらにも振動音が聞こえてきた。
「……はは、噂をすれば、だ」
 ポケットから取り出した携帯を確認して、彼は苦笑する。どうやらメールの着信だったらしい。
「お嬢様ですか?」
「うん」
 はい、と渡された携帯。
 その画面には、ふたつの文章と一枚の写真。
『ありがとうございました! おかげで誕生日、楽しく過ごせました』
 クラッカーの細い紙テープにまみれて笑う五人。真ん中でひときわ嬉しそうな彼女が洸香嬢だろう。その他に写っているのは夫妻の言っていたハウスメイトだろうか。友達にしては随分と年齢層が幅広いようだから。
「……よかった」
 なんだか毒気を抜かれてしまって、散々振り回されたのに、こぼれたのはそんなセリフだった。
 色々大変だったけれど、お客様が満足ならそれでいいと納得しておこうじゃないか。

 そう、すべてはよくある小説のように、なんとか無事に終わったんだから。

「……お疲れさま」
 携帯が引っ込むと、優しい声とともに、頭に手が置かれる。少しの詫びと労いを込めて。
 その重みは業務の終了を意味すると同時に旅の終わりを告げているようで、少し寂しくなった。駅はもう目の前だ。
「本当に疲れましたよ」
 傍らの上司を見上げて、少しむくれてみせる。今回の抗議が半分、あとの半分は自分の中の寂しさをごまかすために。

 上司は小さく肩をすくめて笑う。
「じゃ、さっさと用事済ませますか」
「……はい?」
「パソコン。壊れたんなら早いほうがいいんじゃないの?」
「……あ」
 すっかり忘れていた。

 足を伸ばした電気街で予定より2ランク上のノートパソコンを手に入れ、そのまま詫び名目の昼食をともにして、初めての社員旅行の全行程は終了した。
 帰り道、隣を歩く上司をそっと見上げる。午後の光に目を細める、どこか眠そうなその表情。
「……」
 おそらく彼は昨晩一睡もしていない。
 私を守ると言った、あの約束を果たすために。

――難儀な人だ、本当に。

 苦笑に似たため息が漏れた。
 この事務所に来てから数ヶ月。上司は未だに何を考えているかいまいちわからなくて、気がつけば彼の思い通りに操られている気がする。

 よくある小説のように、探偵は秘密を明かしたりしない。

「城ノ内さん」

 よくある小説のように上手くもいかない。

「ありがとうございました」

 よくある小説のようなロマンスなんていらない。

 笑顔で、手にした箱を掲げてみせると、
「……お安いもんです、お嬢様」
 くすりとからかうような笑顔が返ってくる。

――それでも。
 この先ともに過ごす中でいつか、もう少し彼を理解出来る時が来るだろうか。

 こうして、波乱の社員旅行は幕を下ろした。

     *

 城ノ内探偵事務所の日常は続いていく。
 薄暗い事務所で上司とふたり、今日も業務は滞りなく。
 いつも通り報告書を作成し、休憩時間にはいつも通り上司とお茶を飲む。
 そう、自宅のパソコンが入れ替わった以外は何も変わらずに。

――ただ、数日後。

「……何、この金額」
「ん、どうかした?」
「銀行からメール来てます。塔崎さんから、振り込みされたって通知」
「通知?」
「新しく始まったんです。この前案内メール来てたでしょう? 入金があったらメールで通知してくれるようになったんです。振り込み人と、――金額も」
「げ」
「城ノ内さん……全然見積り寄越さないと思ったら、いつの間に請求書出したんですか?」
「ちょ、待って、落ち着いて、あかりちゃん……!」

――あの時『お安い』と言った上司の言葉通り、うちの新パソコンの値段が誤差の範囲でしかないくらいの法外な金額が塔崎氏から振り込まれ、しばらくパソコンを見るたびになんだか悔しい思いをしたことを、ここに追記しておく。



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