僕の罪

2005/08/30 00:26 □ 短編・ショートショート

 部屋に入ると、薄いカーテンの向こう側には月が浮かんでいた。
 電気も付けず、月の光が差し込むだけの薄暗い部屋で、僕はそのまま玄関先に倒れ込む。
 一度、床に吸い込まれるように力が抜けた後、思い出したように身体が震え出した。
「どうしよう」
 のどの奥からこぼれだしたのは、予想以上に泣きそうな声だった。

 

 部屋の中には毛布が一枚と、拾ってきたちゃぶ台がひとつ。
 四日前に引っ越してきたばかりの僕の新しい部屋には今のところそれしかなかった。
 重い身体をなんとか起こして靴を脱ぎ、ちゃぶ台のところまで這う。
 台の上には今朝買ってきたパンがのっていた。
 腹も減っていないのに、僕はそれに手を伸ばし、ひとくちかじった。
「……っ!」
 一息つく暇もなく、僕は洗面台に走った。
 今のどを通ったばかりのパンとともに、水道水に混じった大量の胃液が排水溝へと消えていく。
「はぁ…っ」
 涙で視界がゆがむ。
 一度瞬きをするとその一滴は頬を伝わず、直接洗面台に落ちた。
 二滴、三滴目は頬を伝い、それでも同じように洗面台で微かな音を立てる。
 のどの奥が痛くなって、僕は激しく咳き込んだ。
 静かな部屋に響き渡る水音と自分の咳が、なぜか不安をあおる。
 苦しかった。怖かった。
 このまま消えてしまえたらどれだけ楽だろう。
 洗面台の縁にしがみついて、僕はへたり込んだ。

「…助けて…」

 右手にはまだ感触が残っていた。
――そうだ。僕は、罪を犯した。

* * *


 僕は携帯を持っていない。
 その代わりに、部屋の片隅に古い電話機が置いてあった。
 電話しないと。
 決心して受話器を掴む。
 ダイヤルする手が震えた。

* * *


――どうしたの?
「未来(みき)…どうしよう、俺…」
――………
「あいつを殺したんだ、さっき」
――………!
「ずっと、ずっと、あいつがいるから苦しいんだって思ってた」
――慶……
「あいつさえいなければ幸せになれると思ってた」
――………
「でも怖いんだ。あいつがいなくなって、すべてが終わったはずなのに。
これからどうなろうと、あの生活を続けるよりましなはずなのに」
――…ねぇ、慶。なんで?
なんであいつを殺したの?
「なんでって…」
――知ってる。知ってるよ。ずっとずっと辛かった。
でもずっと我慢してきたんじゃない。なんで今さら…
「やっぱり許せなかったんだ」
――どうして?もう終わったことじゃない。
あいつに隠れて必死にお金貯めて、やっとあの家での生活を終わりにしたんじゃない。
「…でもあいつには何の報復もしてないじゃないか」
――恨み?そんなことであなた、自分の人生終わりにしたの?
嘘よ。あなたはそんな人じゃないわ。
ねぇ、慶。本当の事言って?何があったの?
「……何もないよ」
――…私が原因?
「……違う」
――じゃあ何であの家に戻ったの?
…ポケットに入ってる紙が原因じゃないの?
「…知ってたのか」
――ごめんなさい。あなたが眠ってる時に見たの。
ねぇ、あれ、どういうこと?
「あいつは…未来を…君を知ってたんだ」
――………
「『お前はいらない。もうひとりだけ帰ってこい』
郵便受けに入ってたんだ。ここ、どうやって調べたんだろうな。
…はは…俺はいらないんだってさ」
――慶……
「それでまたあそこへ行ったんだ。どういうつもりなのか知りたくてさ」
――バカだね…そんなの無視すればよかったのに
「自分でもそう思うよ。あいつ…なんて言ったと思う?」
――…わからないよ、そんなの…
「『お前じゃない。お前は殴りがいがないんだ』」
――……っ
「許せなかった。親父にとって俺はそれだけの存在だったんだ」
――でも…それでも…
「もういいよ」
――………
「なぁ、未来?」
――……?
「結婚してくれないか?」
――……え?
「一緒になってくれないかな」
――…できないよ。
「なんで?」
――わかってるくせに。
「いいんだよ。そう思ってくれるだけで。紙なんか問題じゃない」
――お互い顔も見たことないのに?
「ははっ、そりゃそうだけど。ダメかな?」
――ううん…ありがとう。
「あぁ、ありがとう、未来。
それから…今までありがとう。
しばらく会えなくなるけど俺…、忘れないから」
――慶…?
「この罪は…俺ひとりで背負うから」
――……ねぇ、慶?
「ん?」
――ひとつだけ聞かせて
「何?」
――なんで、その時、私と代わらなかったの?
私は…その為に生まれたのに。
「……これ以上、君を傷つけたくなかったんだ」
――……ありがとう。
「未来。俺は、あの頃より、少しは強くなれたかな」
――…強くなったよ。本当に。
「でも、ごめん。もう一度だけ力を貸して」
――…うん。いいよ。

「どうしても手が震えてうまくいかないんだ」

* * *


 未来は、僕が五歳の時から、僕の中にいた。
 父親の虐待に苦しんでいた僕が生み出した罪。
 傷つき、苦しむ、卑怯な僕の代役。

 僕は彼女の力を借りて、ダイヤルする。
 1、1、0。

 声の震えを必死に抑え、ひとことひとことしっかりと紡ぐ。
「俺、父親を殺しました」

 そして、僕は心の中、彼女に別れを告げた。

 大丈夫。
 どれだけ時が流れても、きっとまた会える。
 僕は待てるよ。
 君のおかげで――強く、なれたから。


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