高き塔より

2005/08/30 00:30 □ 短編・ショートショート

 彼は言った。
「高所恐怖症の人間は、なぜ高いところが怖いんだと思う?」
 私は黙って首を振る。
「怖いんだってさ。自分が、いつかそこから飛び降りるんじゃないかって」

 

 彼の言葉には、確かに一理あるような気がした。
「おいで。怖くないから」
「だめ……やっぱり怖いよ」
 彼に手招きされるまま、一歩前へ踏み出したものの、そこから先は自分の足が、凍りついたように動かなくなる。
 学校の屋上。校庭では感じられない、強い風が背を押す。

 それでも。
 それでも私の足は動かなかった。
 目の前に拡がる風景。いつもとは違う。ここは高い。高い。高い。高い。

――怖い。

 ぐらり。
 目の前が、世界が揺らぎ、立っていられなくなる。
 呼吸が荒い。
 いや、それは錯覚かもしれない。
 今、私は呼吸をしているのか?
 わからない。激しく脈動しているはずの心臓の音すら聞こえない。

「…ぁ」
 震えた唇から、微かに声が漏れる。
「大丈夫。ゆっくりでいいから、そのまま這っておいで」
 彼に言われるまま、硬直した腕で、足で、移動を始める。
 自分の呼吸音さえ聞こえないのに、彼の透き通った声がやけに脳に響く。
「大丈夫だよ。君はここから落ちたりなんかしない」


「君に、あの景色を見せたいんだ」
 つきあい始めて数ヶ月。放課後、彼はいつも私を屋上に誘った。
 夕焼け空が、本当に綺麗だといって。
 それを一緒に見よう、と。


「そうだ。君は鳥なんだよ」
 フェンス代わりの低い壁に腰掛けて、ちらりと私を見る。
「鳥なんだから、落ちたりしない。翼があるんだから飛べばいいだけだ」
 獣みたいに這いつくばっている私を背に、饒舌に語る。
「これは暗示だよ。ね?もう怖くないだろ?」
 足下まで辿りつき、一息ついた私の腕を彼がつかんだ。
 そのまま、引っぱり起こす。
「――――」
 言葉を失う。
 そこにあったのは、真っ赤な景色。
 何もかもが赤く染まって、太陽としばしの別れを惜しんでいる。
「綺麗だろ?」
「…うん」
 ふと、眼下に拡がる闇が目に入る。
 あぁ、大丈夫。私、もう、落ちることは怖くないんだ。
 だから。


 とん。
 その音はとても軽く。
 彼の温かい感触が、私の手に残った。

 空中に身を乗り出した彼が、一瞬振り返ったような気がした。
―― ナ ゼ ?

 簡単。
 私が高いところを怖がっていた理由はふたつ。
 ひとつはあなたの言ったとおり。そしてもうひとつが――
「いつか自分が、そこから『誰かを突き落とす』んじゃないか」って理由だっただけ。


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