彼は言った。
「高所恐怖症の人間は、なぜ高いところが怖いんだと思う?」
私は黙って首を振る。
「怖いんだってさ。自分が、いつかそこから飛び降りるんじゃないかって」
彼の言葉には、確かに一理あるような気がした。
「おいで。怖くないから」
「だめ……やっぱり怖いよ」
彼に手招きされるまま、一歩前へ踏み出したものの、そこから先は自分の足が、凍りついたように動かなくなる。
学校の屋上。校庭では感じられない、強い風が背を押す。
それでも。
それでも私の足は動かなかった。
目の前に拡がる風景。いつもとは違う。ここは高い。高い。高い。高い。
――怖い。
ぐらり。
目の前が、世界が揺らぎ、立っていられなくなる。
呼吸が荒い。
いや、それは錯覚かもしれない。
今、私は呼吸をしているのか?
わからない。激しく脈動しているはずの心臓の音すら聞こえない。
「…ぁ」
震えた唇から、微かに声が漏れる。
「大丈夫。ゆっくりでいいから、そのまま這っておいで」
彼に言われるまま、硬直した腕で、足で、移動を始める。
自分の呼吸音さえ聞こえないのに、彼の透き通った声がやけに脳に響く。
「大丈夫だよ。君はここから落ちたりなんかしない」
「君に、あの景色を見せたいんだ」
つきあい始めて数ヶ月。放課後、彼はいつも私を屋上に誘った。
夕焼け空が、本当に綺麗だといって。
それを一緒に見よう、と。
「そうだ。君は鳥なんだよ」
フェンス代わりの低い壁に腰掛けて、ちらりと私を見る。
「鳥なんだから、落ちたりしない。翼があるんだから飛べばいいだけだ」
獣みたいに這いつくばっている私を背に、饒舌に語る。
「これは暗示だよ。ね?もう怖くないだろ?」
足下まで辿りつき、一息ついた私の腕を彼がつかんだ。
そのまま、引っぱり起こす。
「――――」
言葉を失う。
そこにあったのは、真っ赤な景色。
何もかもが赤く染まって、太陽としばしの別れを惜しんでいる。
「綺麗だろ?」
「…うん」
ふと、眼下に拡がる闇が目に入る。
あぁ、大丈夫。私、もう、落ちることは怖くないんだ。
だから。
とん。
その音はとても軽く。
彼の温かい感触が、私の手に残った。
空中に身を乗り出した彼が、一瞬振り返ったような気がした。
―― ナ ゼ ?
簡単。
私が高いところを怖がっていた理由はふたつ。
ひとつはあなたの言ったとおり。そしてもうひとつが――
「いつか自分が、そこから『誰かを突き落とす』んじゃないか」って理由だっただけ。
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