夢見るものたち
2005/08/30 00:31 □ 短編・ショートショート
やわらかな朝の光に包まれ、僕はいつものように目を覚ます。
ベッドの横に置いてある棚の上にあるはずの目覚ましを、目を閉じたまま、手探りでつかもうとする。
…が、手は空中で空回りするだけで、目的のものには一向に触れられない。
――あれ? 寝ぼけて叩き落としたかな?
僕はぼんやり目を開けた。10年来、寝起きを共にしてきた目覚まし時計。
叩き落としたわけではなかった。それはちゃんとそこにあった。
多少、場所が移動させられていたけど。
針が示す時刻は8時半。
――8時半?!
しまった。遅刻だ。思わず跳ね起きる。
入社してから6年、一度たりとも遅刻なんてしたことなかったのに。これじゃ間に合わない。
反動のように起こる脳貧血と、窓から流れ込んでくる強い光で一瞬、目の前が真っ白になる。
ベッドの横に揃えてあるスリッパを履き、一歩踏み出したときだった。
僕はやっと気づいた。
白いカーテン、白いベッド、白い床、白い棚――すべてが白一色の小さな部屋。
――どこだ、ここ。
枕元に垂れ下がる物体。見たことがある。ナースコールだ。
思い出したように鼻も活動を始める。消毒液のにおい。
清潔でいて、妙に落ち着かない気分にさせるこのにおい。
――病院?
そう、病院だ。なんで僕はこんなところにいるんだろう。
やけに重く感じる足をなんとか動かして、とりあえず目の前の白いドアを開けてみる。
ちょうどドアの前にいた、台車を手にした看護婦と目が合った。
彼女は目を丸くし口を開けたまま、台車を放り出してもと来た道をあわてて戻っていってしまった。
――失礼な。化け物でも見たような顔をして。
当たらずとも遠からず、だったかも知れない。少なくとも、その看護婦にとっては。
僕はその後すぐに、駆けつけた医者に鏡を手渡され、こう言われたのだ。
「あなたはもう何十年も眠り続けていたんですよ。意識が戻ったのはまさに奇跡です」
医者の話では、僕は28歳のとき事故にあい、今は65歳。
つまり、37年もの間昏睡状態だった、ということだった。
「嘘だ」
つぶやいてみても鏡の中の自分が本当だといっている。
別人のようになった顔が、時の流れを確かに示していた。
自分より年上に思えるこの医者たちも、鏡に映る僕よりは明らかに若いのだ。
「嘘だ…」
何かの間違いだ。僕が65歳? そんなバカなことがあるもんか。
37年? 知らない。知らない!
そんな長い間、僕はただ眠っていたっていうのか。
僕はただ、起きただけだ。目を覚ましただけなんだ。
なんでこんな長い時間を突きつけられなきゃならないんだ。
「悪い冗談だよ」
騙そうとしてるんだ。僕を騙して何になるんだか知らないけど。
だってそんな理不尽な話ってないじゃないか。
目が覚めたら僕はすべてを失っていました。仕事も、若さも、そして人生における37年という長い時間も。
すべて、すべて、すべて、すべて、すべて! そんなバカな!
気がついたら、医者の襟元をつかんで問い詰めるように叫んでいた。
涙があふれて、顎からしずくになって落ちるのがわかる。
深刻な顔の医者や看護婦。
「近衛さん、とにかく落ち着いてください」
僕を哀れむような、痛々しい表情で医者が言った直後、ひとりの看護婦の表情が変わった。
何かに気づいた様子で、パッと明るくなる。
「ほら、近衛さん、奥さんがいらっしゃいましたよ!」
――奥さん?!
「奥さん!近衛さん、意識が戻られたんですよ!」
「お電話したんですけどもう出られた後だったみたいで、いらっしゃらなくて…」
口々に話しかける看護婦。しかし彼女には何も聞こえていないようだった。
彼女の目は僕に釘付けになっていた。
やがて、涙が目の端からこぼれ落ちる。
「おかえりなさい」
ずいぶん年老いてはいたが、彼女の顔は確かに見覚えがあった。
「…咲子?」
僕と同い年の、僕の恋人。
僕にとっては昨日のようなもので、彼女にとっては37年前をともに過ごした、僕の婚約者。
彼女が――この、深くしわの刻まれた年配の女性が――。
涙で今にも崩れそうな笑顔。それが彼女の答えだった。
――Yes
「あ……あぁ…」
うめき声ともなんともつかないような声が、のどの奥から漏れ出した。
これは悪夢だ。
こんなことが、現実であるはずがない。
そうだ。これは夢なんだ。
頬をつねってみれば、きっと布団の中の僕は夢から覚めるはずだ。
そう思って、頬に手を当てる。冷たい手の感触。そして、軽い痛み。
嘘だ。現実であるはずがない。
僕の頭は、あくまでこの状況を受け入れようとしなかった。
無意識に、頬にあった自分の手に噛み付く。
周りにいた看護婦や医者たちは、僕が何を始めたのか理解できず、呆然と、ただ、見ていた。
僕の手から血がにじみ、それが僕の唾液と交じり合って腕を伝い落ちるころ、咲子が叫んだ。
「やめて! 何やってるの?!」
その声で、多分、そこにいた全員が我にかえった。もちろん僕も含めて。
血だらけになった右手の治療を受けている間に、僕の頭はずいぶんと落ち着いてしまった。
人間というのは意外と強くできているものだ。
自分自身が手の肉を噛みちぎってまで否定しようとしたこんな状況でさえも、僕はいつのまにか納得してしまっていた。
病室のベッドに腰かける僕の傍らには、咲子が座っている。
なんとなく言葉が出てこなくて、頭の中でうまい言葉を探し続けていた。
聞きたいことなら、たくさんあった。
何から聞けばいいのかわからないほどに。
僕のこと、会社のこと、37年間に起こった世界の変化のこと、
そして、この37年を、咲子はどうやって過ごしてきたのかということだ。
「奥さんだって…名乗ってたの、バレちゃったね」
不意に、彼女が口を開く。とても照れくさそうに、ひとことひとこと選ぶようにゆっくりと。
「籍なんか、まだ入れてなかったのに」
「僕はずっと、考えてたけどな」
そう、僕は眠る前からずっとそのことばかり考えていたんだ。
「ねぇ、私もう、奥さんでいいよね?」
少し、不安そうな声だった。
長い眠りの後で、気が変わったりしていないか心配だったのか。
「…君は僕の奥さんじゃないよ」
「え?」
「まだね。ちゃんと婚姻届を出そう。まだ昼だから今からでもいい。もっとも君がこんなじじいとじゃ嫌だっていうなら別だけど」
一瞬沈黙した後、彼女はふっと笑った。
「恥ずかしいですよ。じじいとばばあで婚姻なんて」
「そんなこと、かまわないよ」
顔を見合わせて、僕らはしばらく笑った。
僕らは、そのあと、本当に届けを出しに行った。
帰り道、子供みたいに手をつないで歩きながら、僕は言った。
「晩婚になってしまったね。本当にすまなかった」
「あなたのせいじゃないんだから謝ることはないわ」
「でも、37年も待たせてしまった」
口に出してから、言うのはとても簡単なことだと気づく。
僕にとって、この37年は架空の年月だった。
しかし、目の前の彼女は37年という本当に長い時を、実際に生きてきたのだ。
「じゃあ、ひとつだけ、願いをかなえてくれる?」
彼女は無邪気に笑った。37年の年月など感じさせない、あのころそのままの笑顔で。
「新婚旅行に連れて行って」
「…新婚旅行?」
「そう。昔一緒に遊んだところ覚えてる? あのタンポポがもう一度見たいの」
そうだ。子供のころ、ふたりで一緒に遊んだあの小さな土地。
一面にタンポポが咲き誇っていて、僕らは綿毛を飛ばして遊んでいたっけ。
「じゃあ、今から行こう」
子供のころに遊んでいたようなところだ。
数十分もあれば歩いていける。
「ちょっと待って。準備がいるの」
咲子は途中で家により、古ぼけたカメラを取ってきた。
「まだ、フィルムが残ってるのよ」
そういうところも変わっていない。
こいつは、たった一枚フィルムが残っているだけで、一年だろうと二年だろうと現像に出さない。
一枚なら適当に撮ればいいじゃないか、と昔言ったことがある。
彼女は、どうでもいい写真を一枚とるくらいなら現像しないほうがいい、と答えた。
大切なものだけ、撮りためていたいらしい。
このフィルムにも何年前の景色が写っていることやら。
目的地に着いたとき、僕らは目を疑った。
あのころと、本当に何も変わっていない。
目が覚めるような黄色い花たち。やわらかな風が吹き、舞い上がる綿毛。
僕らが子供のころに遊んだ土地だ。
咲子はああ言ったものの、本当に変わらない景色を見られるなどと思ってはいなかった。
なのに、ここの土地はまるで、あのころから時が止まっているかのようだった。
僕らは昔座った石の上に、同じように並んで腰掛けた。
言葉を失ったようにタンポポの群生を眺める。
しばらくして、思い出したように、咲子がカメラのシャッターを切る。
そして、ゆっくり話し始めた。
「あなたが事故にあって…、はじめのうちはね、このまま二度と目覚めないんじゃないか、って思ったりしたの。もしそうなったらどうしようって。何日もそればかり考えて、夜、横になっても全然眠れなかった」
僕はどう返していいのかわからず、ただ、黙っていた。
「考えないことにした。信じることにしたの。いつ目覚めるかなんてもちろんわからなかったけど。今日は目覚めなかった。でももしかしたら明日は目覚めるかもしれないでしょ? こう考えれば希望が尽きることなんてないもの」
僕に向かってシャッターを切り、子供のように笑いながら話す、その言葉が痛かった。
「ずっと、何考えてたかわかる?」
「…いや」
「あなたに最初に言う言葉。あなたの寝顔を見ながら、37年間ずっと考え続けてきたの。あなたが夢を見ている間、私はずっとあなたが目覚める時の夢を見てたのよ」
少し、視線を下げて続ける。
「結局、『おかえり』しか言えなかったな…」
残念、という表情だった。
「僕は…君になにもしてやれないのかな」
「なんで? 私は幸せよ。なんたって結婚したばかりなんだから」
僕の暗い表情を変えようと、おどけてみせる。
僕は少しため息をついて、足元に生えているタンポポをむしった。
「本当に君は強くなったね。いや、僕のせいで、強くならざるをえなかったのかな。でもね、僕が起きたからといって君は幸せになれたとは限らないだろう。例 え後10年はやく起きていたとしても、もしかしたら僕は君にとってよい夫になれなかったかもしれない。今の僕も同じだよ。37年もの間、眠っていただけの 人間に魅力はあるのかな? 僕は、君に何も与えてあげられない」
咲子は少し寂しい顔をしていた。
「私が…、何かを与えて欲しくて、待ったことの代償が欲しくて、あなたを待ってたとでも思ってるの? 私は、あなたが一緒にいてくれることだけで十分だわ」
「そうだね。僕にできることと言えば、ただ、これから先、一緒にいることくらいだ」
僕は言いながら、彼女の髪に花冠をかぶせた。
少々不細工だが、37年の寝起きで手先がおぼつかない状態で作ったにしては上出来だろう。
驚いている隙に、彼女の手からカメラを引ったくり、彼女に向けてシャッターを切る。
「覚えてるかい? 作り方は君が教えてくれたんだ」
咲子は今日初めて、心の底から、満面の笑みを浮かべた。
その顔に向けて、僕はもう一度、シャッターを切った。
一ヶ月後、咲子は急逝した。
死に顔は、花冠のときと同じくらいの笑顔だった。
僕とともに過ごした一ヶ月、彼女はいつも幸せでいられただろうか。
葬式の最中、僕はそればかり考えていた。
彼女との別れはもちろんつらかった。
ただ、彼女が幸せだったのなら、満足なようにも思えた。
僕が起きるのがあと一ヶ月遅ければ、僕も彼女も、ともに楽しい時を過ごすことなどなかったのだから。
彼女の葬式から三日が過ぎた日、庭に植えた木に花が咲いた。
この花の名前は知らない。咲子が植えていたものだ。
僕はひとり、この花の姿をカメラに残した。
自分が植えていた花だ。咲子もフィルムを無駄に使ったと文句は言うまい。
そして、それがフィルムの最後の一枚だった。
これで、やっとタンポポの冠をかぶった咲子が拝める。
僕はすぐにフィルムを現像に出すことにした。
はやく見たかったのだが、この町には短時間で現像してくれる写真屋がなかった。
しかたなく、カレンダーに丸をつけ、指折り数えて引渡し日を待つ。
引渡し日には、開店直後に店へ駆け込んだ。
店員から写真を受け取り、金を払って店を出ようとする。
「近衛さん、そのフィルム、いつから入ってたんですか?」
「さぁ、咲子が使ってたもんだからいつから入ってたことやら…」
「かなり古いものじゃないかと思うんですが…実は少し像が緩んでるんです」
「あぁ、まぁかまわんよ。しかたないんだろ」
「すいませんねぇ」
帰る途中、僕は待ちきれず、写真の入っている袋を開けた。
一枚目は、一面のタンポポが写っていた。一ヶ月前のものだ。
次は僕の顔。視線をやや下に向けている。
次の写真には花冠をかぶって呆然とする咲子の顔が映っていた。
ということは次が、僕の見たかった笑顔の咲子なんだろう。期待して次の写真を見た。
だが、そこにあったのは、一枚のぼやけた写真だった。
咲子の顔ではない。
――僕の顔だ。
一枚前のようなさえない表情ではない。満面の笑顔だ。
像がぼやけてあまりきれいには写っていないが、僕にはわかった。
――これは…37年前の写真だ
写真には37年前の僕と咲子の姿が写されていた。
4~5枚ずつ、違う場所で撮られている。
当然、そのすべてに、見覚えがあった。
僕が昔、彼女と一緒に行った場所だった。
これが咲子の大切な写真。
それらは、37年間、カメラが使われていなかったことも示していた。
僕は、彼女の時を止めていたのだ。
彼女の写真で切り取られる「大切な時」は、常に僕とともにあった。
最後の一枚は一ヶ月前、僕が撮った花冠で笑顔の咲子だった。
僕が一番見たかった写真。幸い上手に撮れていた。
彼女はきっとこの瞬間、自分は幸せだと感じてくれていたんだろう。
へたくそな冠の下で、彼女はいつまでも笑い続ける。
切り取られた時の中で、そう、永遠に――