#02 事務員
2014/10/03 00:46 □ 城ノ内探偵事務所
事務といっても色々ある。たったふたりの事務所で、新人に金勘定を任すことはないだろうという程度の予測はしていたが、正直一体何をするのか、さっぱり想像がつかなかった。
五月十四日、朝九時十五分。事務所の前に到着し、軽く深呼吸。
ノックは三回。どうぞーという、朝っぱらから間延びした声に導かれ、ドアを開けた。
「おはようございます」
「おはよう。あ、ごめん。暗いね。電気つけてくれる?」
「あ、はい」
振り返って照明のスイッチを入れながら、これが初めての仕事か、なんて少し笑ってみる。
「席はそこね。いくらふたりでもあんまり近いと息苦しいでしょ?」
彼はそう言って、自分の机から二メートルほど離れた机を指差した。
たったそれだけの距離でも、窓を背にした彼の席と比べると、こちらの席は確かに手元が薄暗い。電気をつけさせたのは雇用主として正解だった。
鞄を傍らに置き、指示された場所に着席する。机の向きが九十度ずらしてあることもあり、まっすぐに前を向くと、彼は視界に入らない。目の前には、ただ一台のノートパソコンが鎮座していた。
「それで、私は何をすればいいんでしょう?」
「うーん、色々あるんだけどね。まずは……あかりちゃん、文書のレイアウトとか得意?」
「レイアウト?」
「そう。ビジネス文書とか、見やすいように体裁整える感じの」
「……まぁ、人並みには出来ると思いますけど」
「じゃあ悪いけど、このUSBの中身のテキストと画像、見やすいようにしてくれる? 出来れば今日中に」
何故か困ったような顔で笑いながら、彼がUSBメモリを手渡してくる。
「あと、今日は一時に依頼人が来る予定だから、来たらお茶出してあげてほしい」
「はい」
なんだ、簡単な仕事でよかった。ホッとしながら、ひとつめのテキストファイルを開く。
――それが、地獄の始まりだった。
*
昼休憩も終わり、窓の外も午後の陽射しに変わってくる。相変わらず、照明は落とせないけれど。
静かな部屋の中で、自分がキーを叩く音が断続的に響いていた。
まっすぐに、本当の真正面に頭を固定していれば見えることはなくとも、ほんのわずかでも右を向けば見えてしまう位置関係。今は何よりそれが悔しい。いっそこの上司の席が自分の真後ろだったなら、悠々と携帯を眺めている彼の姿が視界に入って苛立つこともなかったろうに。
仕事なんだから仕方ない。そんなことはわかっている。
大所帯でもあるまいにわざわざ「事務員」を募集した理由も、なんとなくわかった。
「あかりちゃん?」
「何でしょうか」
パソコンの画面から目を離さないまま答える。その言葉が不機嫌なオーラを纏っているのに気付いたのか、彼は言いかけた本来の言葉を呑み込んだ。
「……コーヒー飲まない?」
「嫌いです。昨日は我慢して飲みましたけど」
「……じゃあ紅茶は? この前茶葉もらったんだ。淹れるよ」
「それならいただきます」
「牛乳要る?」
「精神状態的には必要です。牛乳だけでもいいくらいかもしれません」
「……了解。牛乳多めで」
――あぁ、駄目だ。イライラする。
テキストファイルの一行一行、文章を追うごとに、腹のあたりに何かが溜まっていく気がする。
十数分後、キッチンスペースのドアから上司が顔を出した頃、苛立ちは頂点に差し掛かっていた。
「城ノ内さん」
ミルクティの波打つカップをこちらに差し出してくれた上司へ、静かに声を掛ける。
「はいっ?」
非常に動揺した表情と、裏返った声が返ってきた。
「これはレイアウトの作業じゃありません。仕事の指示は正確な言葉でお願いします」
「……はい。えっと、……『原稿直し』ですか。ごめんなさい」
「原稿直し!? 暗号解読の間違いでしょう!! 何ですか『ちゅおsたいそうhさ』って!」
「あぁ、多分、『調査対象者』の打ち間違い、かな?」
「打ち間違いかな、じゃねぇ! こんなのが何ヶ所あるんだよ!! 読みにくいどころの話じゃない
わ!! 携帯ばっかいじってるなら携帯で打て! そっちのほうが絶対マシだろうが――!!」
「め、名案だね。あかりちゃん? とりあえず落ち着いて?」
引きつった笑顔で、私の顔の前で下を指差す上司。
自分の視線がゆっくりと彼の指先を辿り、紅茶のカップに行き着くと同時、
「─」
我に返る。
自分が発した音が、耳に残っている。夢でも、気のせいでもない。
急速に、色んなところがしぼんでいく気がした。
――あぁ、やっちゃった。
手が震える。まさか初日で本性さらけ出してしまうとは。
青ざめていく私に笑いかけて、上司は言った。
「まぁ、飲んで。淹れ方は悪くないと思うんだけどね」
「……いただきます」
両手でカップを持ち、ふー、と静かに息を吹きかける。
――クビだな。仕方ないか。結局縁がなかったってことだね。
まぁ、もうどうでもいいや。この事務所に来て、最初で最後の晩餐がこの紅茶。水面を眺めながら、ゆっくりとひとくち、のどに通す。
「…………」
チャイの淹れ方だろうか。確かに牛乳が多いし、甘い。でも、とても落ち着く味だった。
色々な感慨も混じってぼんやりとしていると、傍らの椅子に腰掛けた上司も自分のカップに口を付けた。
「友達にもらったんだ。ダージリンだって。紅茶は詳しくないんだけど、悪くないね」
「……はい」
「君の口にあってればいいんだけど」
今時珍しい壁のボンボン時計が、時を知らせる。依頼人が来ると言っていた時間だ。
時計をちらりと見やって、彼は一気に紅茶を飲み干す。猫舌で真似は出来ないけれど、私もあとひとくちだけ口に含み、カップを置いて立ち上がった。
「美味しかったですよ」
言いながら、先ほど彼が出入りしていたキッチンスペースを確認する。
せめて、お茶くみくらいは無難にこなしたい。――これが最後の仕事になるかもしれないんだから。
「ごちそうさまでした。でも、これ多分ニルギリです」
そんな言葉に一瞬驚いた顔をして、
「へぇ。じゃあ、友達に言っとくよ」
上司は笑いながら、ばさりと上着に腕を通した。