「テキスト」カテゴリー
今まで書いたショートショート・小説等、文章置き場です。
拙すぎてカテゴリ名を「小説」とするのすらおこがましい気がしたので「テキスト」。
基本的にどんでん返しを目標に書いてたり、書いてなかったり。
高校時代とかに書いたものも結構あるので正直黒歴史ですが、面倒なので開き直って手直しもいいわけもなしです。
いくつかはイベントで無料配布した「夢見るものたち」に収録しています。
投稿が「夢見るものたち」より前の分に関してはほぼ全部学生時代に書いたもの。
ツッコミどころが満載なのは自分でわかってますので、そこは流していただけるとありがたい。
最近のもツッコミどころが多いのは大して変わりませんが、まぁ、まだマシかと。
伏線を意識し始めたのはCANDY ×GAMEシリーズの途中あたり(2005年)から。
そのへんから書くものがガラッと変わった気がします。
#06 適性
2014/10/04 00:39 □ 城ノ内探偵事務所
昼休み明けの午後一番、ボールペンのインクが切れたため、ちょっと隣の建物にある文具屋に行っている間に電話が鳴ったらしい。事務所のドアを開くと上司がまた私の机のど真ん前に立っていた。
いい加減、一回キレておいた方がいいんだろうか。
一瞬そんな考えが浮かんだが、今回は自分が居なかったんだから、さすがに許容すべきだと思い直した。まぁ、私が事務所に戻って上司の真後ろに立った段階で気づいて退いてほしいと考えるくらいは贅沢ではないと思うんだけれど。
「あぁ、はい。いえ、報告書は今日速達で発送する予定ですが。今日ですか? わざわざ来ていただかなくても……はい、まぁ……では十四時半に。お待ちしております」
私がまた彼の腰を叩くかどうかを悩む前に、上司は電話を置いてくれた。
珍しく疲れた様子でため息をつく。
「あぁ、ごめん。また邪魔してたね」
「いえ。ボールペン買ってきましたよ。これ、レシートとお釣り。箱買いして備品棚に入れてありますので」
「ありがとう。ご苦労さま」
一旦自席へ戻り、受け取ったものを机に仕舞うと、
「……エアコンつけようか。人来るし、外暑かったでしょ?」
そう言って、彼は入り口へ向かった。
「はい。それ以前に、この部屋空気淀んでますよ」
この事務所は陽当たりが悪いうえに風通しも悪く、窓を開けてもあまり風は入って来ない。昼を過ぎ、気温が上がり始めてそろそろ不快の域に入りつつあった。
ドアの隣でかすかにパネルを操作する音が聞こえると、数秒のタイムラグの後、心地よい風が髪を撫で始めた。
異常に気づいたのは約十五分後。
「……あの、城ノ内さん」
「ん? データおかしかった?」
「いや、そうじゃないんですけど……なんか寒くないですか?」
「そう?」
携帯を眺めたまま、彼が答える。気のない返事は来客に備えてずいぶん早く羽織った上着の力ゆえか。薄着で風の直撃を受ける部下の気持ちなどわかるまい。
「……設定温度上げていいですか?」
たまらず立ち上がる。
「いいよ。でもお客さん来るから消さないでね」
「わかりました」
さすがに消す気はなかった。またすぐに空気が淀むのが目に見えていたから。
「……うわ、十八度になってる」
近づいた先には『事務所』とテプラの貼られた操作パネル。そりゃ寒いわけだ、とひとり納得し、上向き三角の表示がついたボタンを連打した。
「……あれ?」
「ん? どうかした?」
「温度が上がらないんです」
「もうちょい強く押してみて。最近反応悪いんだよね」
「……んー」
「……駄目?」
「はい」
「ちょっと貸して」
こちらに近づきながら、彼が言う。その言葉に従って壁に固定された操作パネルから離れると、上司は、ぎゅう、と効果音が付きそうなほど強くボタンを押した。
「……うーん」
「駄目みたいですね」
珍しくむくれた顔で、何度か圧迫を繰り返した上司は、どうしても温度が変わらないことを確認すると、ひとつため息をついた。
「ごめん、あかりちゃん。……今日のところは我慢してくれる? 修理手配しとくから」
「はい。まぁ、仕方ないですね」
「……机移動できないし、困ったね」
電話線と電源の都合上、机の移動は難しい。いや、もちろん移動することは可能だが、理由が一時的なエアコン故障では、それだけの労力を使う気力は湧かなかった。
「まぁ、あったかいお茶でも飲んで我慢しますよ」
「あ、いや、ちょっと待ってね。確か……」
「はい?」
パタパタと小走りでキッチンスペースへ駆け込む上司を目で追う。開け放たれたドアからほんのわずか、生ぬるい空気がなだれ込んできて、私は初めて、耐えきれなくなったらそっちに逃げればいいんだ、と気付いた。
ガサゴソと音はするものの、上司の姿は見えない。そういえば、キッチンの奥にもうひとつドアがあったような……? 自分のおぼろげな記憶を確かめるために、ひょいと音のするほうを覗き込んだ。
記憶は正しかったらしく、ドアの向こうの見知らぬ空間から何かを抱えて出てきた上司と目が合う。
「あったあった。あかりちゃん、これ」
いつもの懐っこい笑顔でその何かを渡される。
「……カーディガン?」
それは、クリーニング上がりのビニールに包まれた黒い男もののカーディガン。
「僕のだからあかりちゃんには大きいだろうけどね。気に入らないかもだけど、風邪引くよりマシでしょ? あとこれも。こっちはなんかのノベルティだったやつだから安っぽいけど」
「……じゃあ、お借りします」
もうひとつ押し付けられたストールを傍らに置き、カーディガンに手を通す。もともとゆったりサイズらしく、袖はやっぱりかなり余った。丈も尻まで完全に隠れる状態で、温度調節としてはちょうどいいけれど、服に着られている、というのはこういうことを言うんじゃないだろうか。
「……」
同じことを考えているのか、上司を見ると、ずいぶん複雑な顔で苦笑していた。
*
「ところであかりちゃん、……ちょっと質問いいかな?」
自席に戻った上司は、一度手にした携帯を、意を決したように机に置くと、何故かとても言いづらそうに口を開いた。その様子に違和感を覚え、何か深刻な話なのかと、パソコンから目を離して向き直る。
「どうぞ? なんですか、改まって」
「あかりちゃんてさ、……あー、えっと、……彼氏とかいる?」
「…………は?」
想定外の質問だった。思いっきり顔を歪めた私に、上司が慌てたように付け加える。
「いや! あの、変な意味じゃなくて。業務上必要な確認というかなんというか……」
「……なんですか、それ」
「あー……はは、答えたくなかったらいいよ、ごめん」
「……別に構いませんけど」
業務上必要というのがよくわからないが、まぁ、ここまで言いづらそうにしているんだから、単なる興味本位というわけでもないんだろう。
先ほどのストールをひざ掛け代わりに足にのせながら、努めて冷静に答える。
「そう呼べるような人は今のところ居ませんね」
「結婚願望とかあるほう?」
「んー、そうですね。……夢みたことは、ありました。でも、」
答えながら、純粋だった頃に思いを馳せる。それほど前ではないはずなのに、今となっては遠い昔のよう。
「今はそれもないですね」
「……そか。若いのにもったいない。でも、ま、それならよかった」
ひとり頷きながらの返答に、ほんの一瞬、腹の奥底が沸き立った。
「……なんなんですか、さっきから」
苛立ちを込めて問う。上司にとっては意味のある質問なのかもしれないが、こちらにとっては蚊帳の外のようで、これが不愉快以外のなんだというのか。
「ごめんね。実は、ちょっと手伝ってほしいことがあってさ」
「……手伝い?」
「うん。まぁ、特に何もしなくていいんだけどね。黙って僕の側に居てくれたらそれでいいから」
そう言って、彼は人差し指を自分の口もとに添える。その仕草で、私は、彼の言う『黙って』が『文句を言わずに』の意味ではなく、文字通り『言葉を発さずに』の意味だと理解した。一応、拒否権は確保してくれているらしいが、特に断る理由も見つからない。
「はぁ。まぁ、いいですけど。今日は報告書も簡単なものばっかりですし」
「ありがとう」
こちらに笑顔を向けて短く礼を言うと、ちらりと時計に目をやる。一瞬の視線の冷たさと、また吐き出されるため息。
『わざわざ来ていただかなくても』
電話の時の言葉を思い出す。どうやら今日の来訪者は彼にとってよっぽど会いたくない人物らしい。
重い腰を上げ、壁に掛けられた鏡の前に立つ上司の手には、カーディガンと一緒に持ってきたのか、深い青色のネクタイ。
「珍しいですね。誰が来られるんです?」
面接の時も、今までの来客の時も、上司がネクタイをしているのを見たことはなかった。いつもはラフな襟元が、意外にも慣れた手つきで引き締まっていく。
「…………来たらわかるよ」
「まぁ、別にいいですけどね。誰でも」
もしかして、よっぽど偉い人なんだろうか。
#05 ペット捜索
2014/10/04 00:36 □ 城ノ内探偵事務所
午後三時。小さく、ドアが叩かれた。
「はぁい」
休憩しよう、と上司がキッチンスペースへ引っ込んだところだったので、事務所には自分しかいない。慌ててドアに駆け寄る。
「…………」
開いたドアの向こうには、緊張した面持ちの小さな男の子がひとり。
「たんていさんですか?」
「……いや、私は違います」
少しがっかりしたような、ほっとしたような複雑な表情をした男の子は見たところ五歳くらい。幼稚園の制服に幼稚園の鞄。
私に探偵かと聞くくらいだから、上司の知り合いというわけではなさそうだ。
「どうしたの? 探偵さんに何かご用?」
しゃがみ込んで視線を合わせ、努めて優しく問いかける。
涙を堪えるためか一度口をへの字に曲げて、絞り出すように彼は言った。
「……チャコをさがしてほしいんです」
「チャコ?」
首を傾げると、鞄の中から取り出した写真を渡された。映っているのは茶トラの子猫。
「おとといからかえってこないの」
「そっか。それは心配だね」
――ペット捜索の依頼? 城ノ内さん出来るのかな。
とにかく、まずは親御さんに連絡したほうがいいだろう。
「お父さんかお母さんは? ひとりで来たの?」
「うん」
「おうちの電話番号わかる?」
男の子が黙って首を振るのと同時、
「わかるよ」
頭の上から、声が降ってきた。
驚いて振り返る。いつの間にか真後ろに立っていた上司が、腕組みして笑いながらこちらを見下ろしていた。
思わず立ち上がって尋ねる。
「知ってる子なんですか?」
「いや。でも、見覚えはあるかな。三咲幼稚園の子だよね?」
優しい声の問いかけに、幼児は静かに頷いた。
先ほどの私と同様に、しゃがみ込んで上司は続ける。
「お名前言えるかな?」
「はやしゆうとです」
「ゆうとくんかー。ちょっと待っててね」
彼の頭を軽く撫で、立ち上がって事務所へ戻る上司は、すれ違いざま、
「友達に先生居るから連絡取ってみるよ。キッチンにココア入れてあるから相手してて」
小さな声でそう言い、――そして最後まで、猫のことには言及しなかった。
*
林悠人の母親がやって来たのはそれから一時間後だった。
上司がドアを開けると同時、顔を確認する間もなく、申し訳ありません! と深く頭を下げる。
「どうぞ。そちらです」
「あ、おかあさん」
応接スペースから覗く顔に安堵の表情を見せた母親は、次いで、怒り顔を作って我が子に向き合った。
「なんでこんなところに居るの? 心配したんだよ!」
いつもの時間に帰ってこず、幼稚園や友達の家に電話して探していたらしい。もう少し見つからなければ警察へ行くつもりだったと。
「ほら、帰るよ」
「おかあさん、チャコかえってこないの」
「……元気ないと思ったら。それでここまで来たの?」
「そうみたいですね。探してほしいって言ってました。いなくなっちゃったんですか?」
世間話程度に聞いてみる。母親は、はい、と短く答え、
「あ、でも、うちで飼ってるわけじゃないんです。一ヶ月くらい前から近くの公園に住みついてて、パンとかあげてたみたいで」
慌ててそう付け加えた。言外をくみとると、『だから捜索のお金は払えません』。セールスのつもりはなかったんだけど、彼女からしてみれば私も探偵事務所の人間だ。この反応は仕方ないのだろう。
「たんていさん、おねがい。チャコをさがしてください」
悠人くんが、今度は上司に向かって懇願する。
「こら、何言って――」
母親が黙らせようとするのを制止し、
「悠人くん、それはお仕事のお話かな?」
微笑みを絶やさないまま、まっすぐに彼を見据えて、上司が問うた。
「うん」
「お仕事なら、お金が一杯いるよ?」
「ぼくのおこづかいぜんぶあげます。おねがいします」
鞄の中を探り、差し出された小さな巾着袋。音だけで、中身は小銭ばかりだとわかった。
「ごめんね。全然足りないんだ」
優しい声で突きつける、冷たい現実。
「…………」
泣きそうな表情に、胸が痛くなる。
こんなに一生懸命なんだから、引き受けてあげればいいのに。あなたならお友達の力でどうにか出来るんじゃないのか。ついそう思ってしまうけれど、自制する。それは絶対に、口に出してはいけない言葉だ。
友達だろうがなんだろうが、彼は力を持っていて、私は持っていない。痛いほど自覚する。何も出来ないくせに、他人に対する要望だけは一丁前か。他力本願は自分のほうだ。
何も言えずに、ただこの沈黙が過ぎ去るのを待つ。
ずいぶん長く感じたけれど、それは多分、時間にしてほんの数秒。
「大丈夫、すぐ見つかるよ。もう少し自分で頑張ってごらん」
くすりと笑って、上司が悠人くんの頭を撫でた。
「お金で他人をあてにするのは最後の手段。行方を知りたいなら君にももっと出来ることがあるよ」
「ぼくにもできること?」
「猫探しのポスターなら、そのお金でも作れるんじゃないかな?」
その言葉で、彼の顔がパッと明るくなる。
「やってみる!」
「─」
今日初めて見るその笑顔に、私は思わず彼の母親と顔を見合わせる。
「ちなみに、」
つられるように笑いあっていると、不意に振り返った上司が手のひらでこちらを示した。
次の瞬間、
「――そこのお姉さんがそういうの得意なんだ」
私は、幼児の懇願と巾着袋の標的がこちらに移行したことを認識した。
*
「おはよう。あかりちゃん、昨日林さん来たよ」
五月二十七日。休日明けの朝、上司からまず最初に言われたのはこんなセリフだった。
「お世話になりました、ってさ」
『どんな結果になっても受け入れること』
ポスターの完成時、上司は悠人くんを諭すようにそう言った。
事務所で埃を被っていたラミネーターを使わせてもらい、出来上がった二枚のポスター。
公園を中心に貼れ、という上司のアドバイスに従って、公園内部の掲示板と公園の入り口にあるコンビニに、許可を取って貼らせてもらった。
写真を加工し、なんとか目立つように作り上げたポスターは結構人の目を引いたらしい。
チャコの行方がわかったのは、ポスターを貼った翌々日のことだった。
連絡先は私の携帯。連絡をくれた人は三十代の女性だった。
探しているのが子供だと知ると、話がしたいと家に招かれた。彼女の家は公園のすぐ近く。
迎えに行くと、母親は急に用事が入ったらしく、大変申し訳ないけれど、と悠人くんを託された。
『大丈夫、すぐ見つかるよ』
――知ってたんだろうな、城ノ内さん。
「ごめんね、知らなかったの」
その家に、チャコは居た。通されたリビングで、柔らかいタオルに包まれ、小さな寝息を立てている。
高坂さなえと名乗ったその女性は、起こさないよう、静かにチャコに触れた。
彼女は、数年前に病気で仕事を辞め、欲しかった子供も出来なくなった。在宅で仕事はしているものの、旦那さん以外の人とは関わりもほとんどなく、どこかで寂しさを感じていたのかもしれない、と話した。
「この前の夜コンビニに行った時にね、ちょっと気晴らしに公園で缶ジュース飲んだの。そしたら、どこから出てきたのか、この子がね、足にすり寄ってきて、にゃあって鳴いたのよ」
微笑みをたたえたまま、愛おしそうに、その身体を撫でる。猫は起きてはいるのかもしれないが、目を開ける様子はなく、ゴロゴロと気持ち良さそうにのどを鳴らしていた。
「首輪もしてなかったから、うちの子になる? ってね。連れて帰ってきちゃった。ごめんね。ぼくの家の子だったんだね」
申し訳なさそうに、彼女が謝る。
「ううん。ぼくのうち、ねこかえないの」
少し悲しそうに首を振り、
「おばちゃん、チャコたいせつにしてくれる? ぼく、またあいにきてもいい?」
まっすぐに投げかけた質問は、『結果』を受け入れた林悠人の決断だった。
目を丸くした後、高坂さんは、眩しいものを見るように目を細め、もちろん、と短く答えた。
「悠人くん、すっかり元通りで元気に公園駆け回ってるってさ」
「そうですか。よかったです」
こちらも笑って答える。悠人くんも高坂さんもチャコも、みんな幸せな結末なら及第点だろう。――おそらくすべて、彼の予想通りの結果だろうけど。
「全部知ってたんですね、城ノ内さん」
「まぁ、高坂さんも友達だからね」
「それなら教えてあげればいいのに」
「僕のネットワークは商売道具だからね。安売りはしない主義なんだ」
本気なのか冗談なのか。彼はおどけたような仕草で笑った。
「それにこっちのほうが、達成感は味わえたでしょ? あのくらいの子にはそれも必要なことだよ」
「はい、まぁ、そうかもです」
「あ、でさ、これ」
思い出したようにそう言いながら、彼は棚の上に置かれた紙袋を手にした。
「はい、これは君の報酬」
「……?」
「受け取れないって言ったんだけど、君に渡してくれって」
「あー……」
覗き込んだ紙袋の中には、大きな菓子折が納まっていた。
「気、使わせちゃいましたかね」
「ま、いいんじゃない? 感謝してたよ」
なんだかくすぐったいような気分で紙袋を受け取ると、
「よく出来ました」
悠人くんで癖になったのか、上司が頭を撫でてきた。
「……十時になったら、これでお茶にしましょうか。紅茶でよければ、今日は私が淹れますよ」
「君の報酬なのに?」
「この重さですよ。ひとりじゃどのみち食べ切れませんよ」
「それじゃあ、ご相伴にあずかろうかな」
「はい。じゃあ今日も一日よろしくお願いします」
「ん、よろしくね」
上司の笑顔で、今日も一日が始まる。
相容れなさは消えないけれど、今までよりもう少しだけ、彼を好きになれそうな気がしていた。
#04 真相
2014/10/04 00:31 □ 城ノ内探偵事務所
浮気調査に人探し、信用調査。小さな事務所の割りに、調査依頼はコンスタントに入ってきた。
だからその違和感に気付くのに、それほど時間はかからなかった。
*
五月二十日。初めてこの事務所を訪れてから一週間。報告書の作成も大分慣れてきた。上司のテキストは相変わらず、たまにフェイントのようなとんでもない間違いが潜んでいるから油断は出来ないけれど。
依頼の中で一番多いのは、意外にも従業員の素行調査だった。
「城ノ内さん、この西原(にしはら)ってどういう会社なんですか?」
「ん? 別に普通の会社だよ。医薬品の卸関係だったかな?」
「……なんでこんなに素行調査が多いんです?」
そこまで大きな会社でもなさそうなのに、調査対象はこの一週間で三人。これから手を付ける報告書に記載する調査結果は三人とも、『サボりの常習犯』だった。
「まぁ、お得意さんだから多少は安くしてあげてるけど、あんまり性質の良い会社じゃないのは確かだね」
「まさか、いつもこんな状態なんですか?」
「いや、今回はちょっとお祭りがあったから集中したんだろうね」
「お祭り?」
そんなものあったか? 思わず眉を寄せる私に、上司が苦笑する。
「そ。パチンコ屋のね」
「……なるほど」
報告書を見返すと、確かに三人とも同じ日にパチンコ屋へ長時間居座っている。
「社長も大変ですね。こんなに不良社員ばっかりだと」
「はは、違う違う。あそこの社長はわざとそういうのばっかり採用してるんだよ」
「は?」
「素行は悪いけど営業成績はそこそこの人間拾ってきて泳がせるの。サボりの証拠を掴んだら、ペナルティの名目で給料は最低賃金まで引き下げ。職務怠慢の損害賠償と、うちの調査費用は問題の社員が借金として会社に返済していくことになる。おそらく調査費用も水増ししてるだろうけどね」
「……性質の悪さはどっちもどっちってことですか」
「まぁね。生まれ変わったみたいに本当に真面目に働いてた人もいるけど」
「その場合は調査費用無駄ってことですか? そんなリスク負ってまでよく……」
「他で取り返せるだろうし、元不良社員たちが頑張って業績も上がってるみたいだからそのくらいは痛くも痒くもないんじゃない? それにあの社長、腐っても『西園』の遠縁らしいしね」
「…………あー、」
同族経営の会社が強いこの街にはいくつかの勢力がある。上司の口にした名前はそのうちのひとつ。――第二勢力『西園』。西原の名は聞いたことがないけれど、聞き慣れたそれの遠縁であるなら、金の使い方にも納得出来る。そして、その性質の悪さにも。
「ま、僕もあんまり関わりたくはないんだけどね」
「……いいんじゃないですか? 仕事なんですから。仕事にもお金にも貴賎はありませんし」
納得のいったところで、仕事に戻る。まぁね、と、少し意外そうな顔で、上司が笑った。
*
「『五月十七日、午後二時二十分。調査対象者が[PC空間]入店』……住所は御影市林田三丁目十五番地……現場の写真は5番、と」
調査対象者は西原の従業員のひとり。5番の写真には駅前のネットカフェが写っていた。看板に光が反射して店名が少し欠けている。パチンコ屋のイベント日以外は主にこの店で時間を過ごしていたらしい。
画像はすべてL判でも印刷しているけれど、書類にもわかりやすく縮小して配置する。
『報告書見やすいってお客さんに褒められたよ。人並みって言ってたけど、すごい上手だよ。レイアウト』
昨日言われたセリフを思い出す。あんな風に満足そうに礼を言われると悪い気はしない。
まだ一週間の新人に任せられることは少なく、レイアウトとお茶くみの他には電話の取り次ぎと買い出し程度。だから手の空いている時には、配る予定のない宣伝チラシを作ってみたり、特に必要もないのにコーヒーメーカーの使い方を可愛らしくまとめて貼ってみたり。
タイピングの粗さはともかくその他では人並み以上にパソコンを使える上司だったが、そういう能力はからっきしらしく、いちいち感心してくれた。ちなみに、宣伝チラシは気に入ってもらえたらしく、口コミ用にと応接スペースへ配置されている。
――……あれ?
最初はその違和感が何から来ているのかわからなかった。
「…………」
テキストと画像。提供された素材をゆっくりと、もう一度見返す。
「……この時間……?」
午後二時二十分。その時間は確か――
「あ、何かおかしい?」
「城ノ内さん、これなんですけど、この時間って、吉岡さんが来られた時間です。城ノ内さん事務所に居ましたよね? 日付か時間、間違ってるんじゃないですか?」
「あー、それね。気にしないで。間違ってないから」
「間違ってないって……」
疑いを持って、画像を見る。確かに昼間の写真だ。日付も時間も画像の右下に入っている。
「――!」
やっと、気付く。
ばさりと、今まで作った報告書のコピーを机に置く。わざわざ見なくとも覚えているのに、それでも確認したかった。
――やっぱり……!
なんで今まで気が付かなかった? ここ一週間の調査報告書。私の関知しない夜ならともかく、昼の写真がこんなにある。――彼は、一歩もこの事務所から出ていないのに。
もう一度先ほどの写真を見る。
ブレもなく、くっきりときれいな写真。まるで写真のプロのように。
「……誰が撮ってるんです、この写真」
私の質問に、苦笑する上司。今頃気付いたの? なんて声が聞こえるよう。
「友達。鳥景写真家の小森祐輔。知らない? この街では結構有名なんだけどね」
「……こっちの写真は?」
写っている人物はハッキリわかるものの、先ほどの写真と比べればぼやけている別の日の写真を示す。
「佐藤和也と水上恭子。近所の高校生」
「…………自分で尾行したことは?」
「ないね。上手くできる自信もない」
「…………」
まぁ、この人目立ちそうだから尾行しても駄目そうな気はするけども。けど、それにしてもだ――
まさか事務所と関係ない人間にそんなことをさせているなんて。
他力本願もいいところじゃないか。こちらの呆れた顔に、上司はまた苦笑う。
「だから、友達が多いって言ったでしょ?」
――相容れない。
その表情に、私はただそう感じていた。
#03 家出人調査
2014/10/03 00:50 □ 城ノ内探偵事務所
息子を探してほしい、と、その婦人は言った。
「一ヶ月前に探すなというようなメモを残して居なくなったんですけど、どこにいるのかわからなくて。週一くらいでどうでもいいような連絡があるので、生きてるのは確かなんですけど……」
事務所内の一角、パーティションで囲っただけの応接スペース。
お茶を出して自席に引っ込もうとした私を、上司が引き止めた。腕を掴まれ、視線とわずかな顎の動きで傍らの椅子に座るよう指示される。
「…………」
いや、別にいいけどさ。あの暗号解読今日中じゃなかったっけ?
「おそらく意図的でしょうね。敢えて定期的に連絡を入れている。ただの家出で特に事件に巻き込まれているわけじゃないなら、警察の動きは鈍いでしょうから。家出の前、息子さんと何かありました?」
「お恥ずかしいことですが、学校の成績のことで、少し叱りました。それがきっかけで、大喧嘩になりました。他の子と比べて小遣いが少ないことも不満だったようで……」
「なるほど」
軽く頷きながら、テーブルに置かれた写真を手に取る上司。
「お願いします。まだ十七歳なんです」
憔悴した様子で、婦人が頭を下げる。
ここへ来るまで一ヶ月。今まで普通に生きてきた人にとって、探偵事務所なんて気軽に来られる場所じゃない。
もし自分だったら、と考える。親戚や友人関係、心当たりはすべてあたって、警察にだって足を運んで。おそらく、ここに来るのは最後の手段。
信用出来るのかどうかもわからない、探偵なんていう肩書きの胡散臭い相手に、ただ頭を下げ続ける姿に、心が痛む。その場に居るだけの立場上、顔を上げてくださいとも言えず、それでもはやく、何か声を掛けてあげてほしくて、私はちらりと隣の探偵を窺った。
「……っ」
そこにあったのは、目の前のつむじに対する、蔑むような笑み。
こちらの視線に気がつくと、上司は質を変えた笑みをこちらに向け、そしてまた何事もなかったかのように、先ほどまでの営業スマイルで婦人に向き直る。
「吉岡さん、顔を上げてください」
不安げに体勢を元に戻す婦人をまっすぐに見据え、
「ひとつ、お聞きします」
口調はとても優しいのに、その声はどこか冷めた色をしていた。
「あなたは息子さんを連れ戻したいですか? それとも息子さんに帰ってきてほしいですか?」
「え、……え?」
「言葉通りの意味です。前者なら、居所がわかれば報告します。連れ戻すなりなんなりご自由に。後者なら、自主的に帰るように仕向けます」
「……そんなことが、出来るんですか」
「後者の場合も、居場所がわかった段階で同じく報告はします。でも、決して何もしないでください。約束出来ますか?」
彼の顔から笑みは消え、口調は強くなっていく。怖い、と思えるほど。
「着手金が十万。成功報酬が三十万の締めて四十万、ってところですかね。おそらく、それほど時間はかからないでしょう」
そんなセリフをあっさりと言い退けて、
「どうされますか?」
「…………ぁ、」
呆然と、探偵を見つめる依頼人。戸惑い、そして目の前にあるのが、希望なのか、それともそれ以外の何かなのか、測りかねている表情。
「吉岡さん?」
「え、あ……お、お願いします」
うわずった返答。婦人は慌てたようにその場で鞄を開き、震える手で着手金を差し出してきた。
私に受け取るよう顎で指示すると、上司は再度、営業スマイルを作る。
「承りました。どうぞご自宅で息子さんのお帰りをお待ちください」
*
「……はぁ」
何度目かのため息に、上司が笑う。
「どうしたの? さっきから」
「なんだか疲れました」
「あはは、緊張した? 駄目だよ、あれくらいで」
「だってなんか深刻すぎて」
私の言葉に上司が苦笑する。
「こんなとこに来る人はみんな深刻だよ。……ほとんどね」
「……そっか、そうですよね」
自分の考えが甘かったことに気付く。どんな人がここに辿りつくのか、先ほど考えたばかりだったのに。
ここに居れば、他人の深刻な人生と、嫌でも向き合うことになるのだろう。――まぁ、あくまでここに居ればの話だけれど。
「あかりちゃん、それ今日中に終わりそう? 終わらなかったら無理しなくていいよ?」
「いえ、終わらせます」
せめて任された仕事くらいは終わらせないと、いくら一日でクビになった人間といっても、いったい何のために雇われたのかわからない。
「別に、明日でいいのに」
机に肘をついて顎をのせ、ポツリと零した上司のセリフは、狭い室内に、やけに響いた。
「…………あし、た?」
「うん。明日の夜に渡す予定だから、その報告書」
「いや、えっと、」
「ん?」
「……私、明日も来ていいんですか?」
「えっ? 来られないの?」
「いえ、そうじゃなくて」
「??」
私の言いたいことは理解不能らしく、肘をつくのをやめた彼は眉間に皺を寄せて首を傾げている。
「だって私、あんな醜態晒してしまって、その」
思わずうつむいてしまう。言葉が上手く出てこない。
「あぁ! って、え? そんなこと気にしてるの?」
立ち上がり、こちらの席に近づいてくる上司の気配。
「……気にしてます」
「あんなのでクビにするわけないでしょ。やっと来てくれた事務員さんなのに」
「初日でヒス起こすろくでもない事務員でも?」
事務椅子を少し回して、恐る恐る、彼を見上げた。
「まぁ、あれは怖かったね」
冗談っぽく身を縮め、上司が笑う。それが恥ずかしくて、思わずまたうつむいてしまった。今この場に穴があったら泥水で満たされていようと喜んでダイブする、絶対。
「だから、これからは怒られないように注意するよ」
「……っ」
優しい声とともに、後頭部に置かれた手の重みが、くしゃりとわずかに髪を乱す。
「あぁ、ごめん。これもセクハラかな」
すぐさま離れていった手のひらの余韻を消すために、髪を直す振りして頭に手をやった。
再び顔を上げた私に上司がまた笑う。
「末永くよろしくって言ったでしょ? もちろん、君が嫌なら別だけど」
ごめんなさいとか、ありがとうとか、言わなきゃいけない言葉は一杯あるはずなのに、その時の私は、首を横に振るのが精一杯だった。
*
五月十七日、午後二時十五分。
「あ、はい。少々お待ちくださいませ」
事務所の電話に出ると、相手は聞き覚えのある声だった。
「城ノ内さん、吉岡さんからお電話です」
「はいはい。思ったより早かったね」
そんなことを言いながらこちらに近づき、受話器を受け取ると、上司はにこやかに電話の向こうと話し始めた。
「…………」
思わず、上司の腰を叩く。軽く、二回。振り向いた上司は椅子に座った私が自分を睨み上げているのに気付いて、あっ、という顔をした。そして、片手で拝むような仕草をして、慌てて身体の位置を変える。
ひとつしかない電話機が私の机にあるため、上司の電話中は邪魔で仕方ない。机の向こう側に回ってくれれば問題はないのに、と、毎回苦情を訴えているのだが今のところ最初から向こう側に行ってくれたことはなかった。
「あぁ、はい。それはよかったです」
無事ノートパソコンの正面に戻ることが出来た私は、目の前の上司の会話を気にしつつも、報告書レイアウトの続きを始める。元になるテキストは、二日目の出勤時にもらったメールアドレスに上司から送られてきたもの。
『あかりちゃんのアカウント取ったから、テキストはそこに送るね』
初日のヒスの原因は、私が口走った方法であっさりと解決された。携帯で入力されたテキストは前に比べれば格段に誤字が少なく、読みやすいものだった。いくら改行がいい加減でも、句読点がすっ飛んでいても、予測変換で漢字や接続詞がとんでもないものになっていても、アレと比べれば天と地の差だ。
「では、振込用紙を……え、来られるんですか? 今日? あぁ、はい。構いませんが」
ちらりと上司を見る。どうやら、任務完了のようだ。
吉岡孝太の行方調査報告書、というよりは単に住所をふたつ並べただけの書類を作成したのは、五月十五日――つまり、吉岡夫人がこの事務所に来た翌日の朝のことだった。
朝、出勤した私に、携帯を眺めながら、上司は言った。
『あかりちゃん、吉岡さんの件でメール送ってるから。昨日の置いといて、こっち先にお願い。すぐ出来ると思うから』
寝起きのようなぼんやりした口調で、あくびをしながら。開いたメールには住所がふたつ。住んでいる場所と、働いている店の住所。おそらく年齢を偽って働いているのだろう。店名を見る限り、あまり健全ではなさそうだ。
『って、もうわかったんですか!? 昨日の今日で!?』
大都会というほどではないにせよ、この街もそれなりに栄えてはいる。
人ひとり見つけ出すのはそう簡単ではないはずなのに、この短時間でやってのけたというのか。
『まぁね。見たことある顔だったし』
驚く私に軽く笑い、上司は指示を追加した。
『あの奥さんちょっと心配だから、一切の行動を慎めって書いといて。これからの計画邪魔されても困るから』
ご家族の行動により任務が失敗に終わった場合、一切の責任は負えません。そんな一文が効いたのか、吉岡夫人は探偵の指示に素直に従ったらしい。
「はい、では、お待ちしております」
上司は受話器を置くと、今さら視線に気付いたのか、こちらに笑顔を向ける。
「近くに居るみたい。お金、これから持ってくるってさ」
「…………はい」
「何か聞きたそうな顔してるね」
「はい、まぁ」
「いいよ、聞いて。答えるかはわからないけど」
「じゃあ、遠慮無く」
「どうぞ」
「どうやって説得したんです?」
「説得?」
「吉岡さんの息子さんです。家に戻られたっていう電話だったんでしょう?」
「うん」
「家出少年って、どう言ったら素直に帰るのかなって」
「……説得なんかしてないんだよ」
「してない?」
私に話していいかどうか悩んだのか、少しの沈黙の後、上司は口を開いた。
「あかりちゃんさ。例えば自分だったら、家出して身分隠して働いててさ。ある時何故か周りの人に『家に帰れ』って言われるようになったらどう思う? 同僚にも、事情も何も知らないはずの初対面の赤の他人からも同じこと言われるの。それもひとりやふたりじゃない、会う人会う人みんなから」
「…………」
「僕なら気持ち悪くなって引きこもるかもね。でも、彼は引きこもろうにも同僚の家に居候してた。そりゃそうだよね。賃貸契約には住民票が要る。未成年なのはすぐにわかるし、未成年がひとりで契約なんてどこも受け入れてくれない。そもそも親から捜索願が出されてるかもしれないのに、のこのこ役所に住民票取りに行ったり出来るわけない。で、その同僚にももちろん例のセリフを言われてしまう」
「……だから、」
「そ。帰ってくるしかなかったんだよ」
「…………」
「彼が早めに帰ってきてくれてよかった。もうちょっとしぶとかったら店長に全部バラしてクビにしてもらうしかなかったからね。穏便に済んで万々歳だ」
「…………」
「呆れた?」
こちらの反応に苦笑しながら、上司が頭を掻く。
「いえ、そういうわけでは」
思わず首を小さく横に振る。
「でも、そんな芸当どうやって――」
言葉の途中、ドアの方からノックの音が聞こえてきた。
「はーい。あかりちゃん、お茶お願い出来るかな?」
「あ、はい!」
慌ててキッチンスペースへ走る。その背中に声が掛けられた。
「先にその質問に答えとくよ」
「……え?」
振り返ると、上司はいつもの笑顔のまま、こう言った。
「企業秘密だけどね――あかりちゃん、僕は友達が多いんだよ」
#02 事務員
2014/10/03 00:46 □ 城ノ内探偵事務所
事務といっても色々ある。たったふたりの事務所で、新人に金勘定を任すことはないだろうという程度の予測はしていたが、正直一体何をするのか、さっぱり想像がつかなかった。
五月十四日、朝九時十五分。事務所の前に到着し、軽く深呼吸。
ノックは三回。どうぞーという、朝っぱらから間延びした声に導かれ、ドアを開けた。
「おはようございます」
「おはよう。あ、ごめん。暗いね。電気つけてくれる?」
「あ、はい」
振り返って照明のスイッチを入れながら、これが初めての仕事か、なんて少し笑ってみる。
「席はそこね。いくらふたりでもあんまり近いと息苦しいでしょ?」
彼はそう言って、自分の机から二メートルほど離れた机を指差した。
たったそれだけの距離でも、窓を背にした彼の席と比べると、こちらの席は確かに手元が薄暗い。電気をつけさせたのは雇用主として正解だった。
鞄を傍らに置き、指示された場所に着席する。机の向きが九十度ずらしてあることもあり、まっすぐに前を向くと、彼は視界に入らない。目の前には、ただ一台のノートパソコンが鎮座していた。
「それで、私は何をすればいいんでしょう?」
「うーん、色々あるんだけどね。まずは……あかりちゃん、文書のレイアウトとか得意?」
「レイアウト?」
「そう。ビジネス文書とか、見やすいように体裁整える感じの」
「……まぁ、人並みには出来ると思いますけど」
「じゃあ悪いけど、このUSBの中身のテキストと画像、見やすいようにしてくれる? 出来れば今日中に」
何故か困ったような顔で笑いながら、彼がUSBメモリを手渡してくる。
「あと、今日は一時に依頼人が来る予定だから、来たらお茶出してあげてほしい」
「はい」
なんだ、簡単な仕事でよかった。ホッとしながら、ひとつめのテキストファイルを開く。
――それが、地獄の始まりだった。
*
昼休憩も終わり、窓の外も午後の陽射しに変わってくる。相変わらず、照明は落とせないけれど。
静かな部屋の中で、自分がキーを叩く音が断続的に響いていた。
まっすぐに、本当の真正面に頭を固定していれば見えることはなくとも、ほんのわずかでも右を向けば見えてしまう位置関係。今は何よりそれが悔しい。いっそこの上司の席が自分の真後ろだったなら、悠々と携帯を眺めている彼の姿が視界に入って苛立つこともなかったろうに。
仕事なんだから仕方ない。そんなことはわかっている。
大所帯でもあるまいにわざわざ「事務員」を募集した理由も、なんとなくわかった。
「あかりちゃん?」
「何でしょうか」
パソコンの画面から目を離さないまま答える。その言葉が不機嫌なオーラを纏っているのに気付いたのか、彼は言いかけた本来の言葉を呑み込んだ。
「……コーヒー飲まない?」
「嫌いです。昨日は我慢して飲みましたけど」
「……じゃあ紅茶は? この前茶葉もらったんだ。淹れるよ」
「それならいただきます」
「牛乳要る?」
「精神状態的には必要です。牛乳だけでもいいくらいかもしれません」
「……了解。牛乳多めで」
――あぁ、駄目だ。イライラする。
テキストファイルの一行一行、文章を追うごとに、腹のあたりに何かが溜まっていく気がする。
十数分後、キッチンスペースのドアから上司が顔を出した頃、苛立ちは頂点に差し掛かっていた。
「城ノ内さん」
ミルクティの波打つカップをこちらに差し出してくれた上司へ、静かに声を掛ける。
「はいっ?」
非常に動揺した表情と、裏返った声が返ってきた。
「これはレイアウトの作業じゃありません。仕事の指示は正確な言葉でお願いします」
「……はい。えっと、……『原稿直し』ですか。ごめんなさい」
「原稿直し!? 暗号解読の間違いでしょう!! 何ですか『ちゅおsたいそうhさ』って!」
「あぁ、多分、『調査対象者』の打ち間違い、かな?」
「打ち間違いかな、じゃねぇ! こんなのが何ヶ所あるんだよ!! 読みにくいどころの話じゃない
わ!! 携帯ばっかいじってるなら携帯で打て! そっちのほうが絶対マシだろうが――!!」
「め、名案だね。あかりちゃん? とりあえず落ち着いて?」
引きつった笑顔で、私の顔の前で下を指差す上司。
自分の視線がゆっくりと彼の指先を辿り、紅茶のカップに行き着くと同時、
「─」
我に返る。
自分が発した音が、耳に残っている。夢でも、気のせいでもない。
急速に、色んなところがしぼんでいく気がした。
――あぁ、やっちゃった。
手が震える。まさか初日で本性さらけ出してしまうとは。
青ざめていく私に笑いかけて、上司は言った。
「まぁ、飲んで。淹れ方は悪くないと思うんだけどね」
「……いただきます」
両手でカップを持ち、ふー、と静かに息を吹きかける。
――クビだな。仕方ないか。結局縁がなかったってことだね。
まぁ、もうどうでもいいや。この事務所に来て、最初で最後の晩餐がこの紅茶。水面を眺めながら、ゆっくりとひとくち、のどに通す。
「…………」
チャイの淹れ方だろうか。確かに牛乳が多いし、甘い。でも、とても落ち着く味だった。
色々な感慨も混じってぼんやりとしていると、傍らの椅子に腰掛けた上司も自分のカップに口を付けた。
「友達にもらったんだ。ダージリンだって。紅茶は詳しくないんだけど、悪くないね」
「……はい」
「君の口にあってればいいんだけど」
今時珍しい壁のボンボン時計が、時を知らせる。依頼人が来ると言っていた時間だ。
時計をちらりと見やって、彼は一気に紅茶を飲み干す。猫舌で真似は出来ないけれど、私もあとひとくちだけ口に含み、カップを置いて立ち上がった。
「美味しかったですよ」
言いながら、先ほど彼が出入りしていたキッチンスペースを確認する。
せめて、お茶くみくらいは無難にこなしたい。――これが最後の仕事になるかもしれないんだから。
「ごちそうさまでした。でも、これ多分ニルギリです」
そんな言葉に一瞬驚いた顔をして、
「へぇ。じゃあ、友達に言っとくよ」
上司は笑いながら、ばさりと上着に腕を通した。