午後二時半。入り口のドアから聞こえてきたのは、女性の声だった。
「急にごめんなさいねぇ」
「いらっしゃいませ。わざわざご足労いただきありがとうございます」
仕事用の笑顔で応接スペースに誘導すると、すぐさま事務所に戻ってきた上司は、こちらに向かって大きく手招きする。
応接スペースは事務所の片隅を高めのパーティションで区切っただけのもの。小声ならともかく普通に話していれば向こうにもある程度は聞こえてしまう。
声を出すなと言われたので、とりあえず頷いて返答にする。
――あ、お茶出さなきゃ。
キッチンスペースへ向かおうとする私の腕を、慌てて上司が後ろから掴んだ。低い声が耳元で囁く。
「いい。いらないから」
「……? はい」
「それより早くこっち来て」
応接のほうが寒いからと、自席に置いていたストールを被せられ、珍しく笑顔のない上司に手を引かれる。
――なんだ? なんか焦ってる?
不思議に思いながら応接スペースに着くと、視線と顎で促され、脇に腰掛けた。
気付かれないよう、依頼人のほうを窺う。三十代後半のまだ見たことのない女性。
派手目の顔立ちだが、とても綺麗な人だった。大きく胸の開いた薄手のワンピースが今この場ではただ寒そうに見える。
これが、「招かれざる客」? 特にマナーに厳しそうにも見えない。
「藤井さん。早速ですが、こちらが報告書になります」
「見ていいかしら?」
「どうぞ」
静かに、彼女が封筒を手に取る。昨日、私が作った浮気調査報告書だった。調査対象者は藤井豊。ということは、この女性はその妻である藤井直美夫人なのだろう。
「…………」
食い入るように書類に目を通す夫人のその手が震えている。
「残念ですが、ご主人は同じ会社の女性とお付き合いをされているようです」
「そう、ですか」
書類を手から放すと、ポロポロと涙をこぼし始める藤井夫人。
哀れなその姿に、
――…………?
何故だろう。何か、違和感を覚える。
まるでひとつひとつの仕草や感情を大げさに演じているような、そんな印象。
「ありがとうございます。離婚の決心がつきました」
口元を押さえて、伏し目がちに。
それでいて、私の存在が気になるらしく、こちらにもちらちらと視線を寄こす。
「そうですか。これからの人生に幸多きことを祈っております。傷心のところ申し訳ございませんが、こちらが請求書になります」
「じゃあ、また持ってきます」
「いえ、振込用紙を付けておりますのでわざわざお越しいただかなくても結構ですよ。山崎町のご自宅からここへ来るのは大変でしょう?」
営業用の微笑みを絶やさずに、あくまで事務的に対応する上司にも違和感があった。
やっぱりものすごく嫌がっている。まぁ、その理由はなんとなくわかってきた。
ただ黙って隣にいるだけでいい。それはつまり、私の存在自体が牽制になることを期待しての命令だ。残念ながらそこまでの効果はなかったらしいけれど。
命令通り何も言わず、上司をちらりと流し見る。そろそろ笑顔を保つのが限界に来ている。
「いいえ。城ノ内さん、あなたに会いたいんです」
――一瞬。
聞きたくないセリフで思いっきり険しくなった上司の顔を、私はきっと一生忘れない。
「からかわないでください」
笑顔に戻り、今のセリフを冗談にしようと必死の抵抗を試みるけれど、
「本気ですよ」
そんな努力が通じるはずもなく、彼女は上目遣いで、机の上の彼の手を撫でた。
「――っ」
――なんだこの攻防。
牽制どころか、蚊帳の外からひとり見物してる状態じゃないか。
いや、実は牽制になってるのか? 私がここにいなければ、強引に押し倒されてたりするんだろうか。
助け船を出してやりたい気もするが、しゃべるなと言われているし、そもそも事を荒立てずにどうやって助ければいいのかもわからない。なにせ支払い前のお客様だ。機嫌を損ねるのは避けたい。
どうしようかと考えを巡らせていると、唐突に、――彼の顔から表情が消えた。
――あ、切れた。
何故かそんな風に直感した。キャパシティオーバーだ。今確かに、彼は何かを振り切った。
何かが起こる予感に、息を呑む。
上司は一度目を閉じると、またゆっくりとまぶたを開いた。
「――あかり、下がってなさい」
その声は限りなく優しく、そして限りなく冷たく響く。
いつもと違う呼び方に、思わずビクッとしてしまう。
動揺を押し殺して、とにかく黙ったまま一礼し、応接スペースを後にした。
張り詰めていたのか、パーティションの裏側に立った瞬間、脱力感に襲われる。
カーディガンはもちろん、その上からストールまで羽織っていたのに、思った以上に手足が冷えている。藤井夫人はあの格好でなんであんなに平気な顔でいられるんだと不思議に思うくらいに。
考えてみれば、茶を出さなかったのは儀礼的な歓迎の意を表さないこと以外に、暖を取らせないためでもあったのかもしれない。
「…………」
いきなり解放されたのは何故だったんだろう。結局役に立たないことがわかってお役御免になったということか。なんだか申し訳ない気分になる。
それにしてもどうするつもりだろう。まさか黙って襲われる覚悟をしたわけじゃないだろうけど。
思わず、パーティションの向こうに耳を澄ます。
おそらく私の足音が聞こえなくなったのを確認したのだろう。上司が沈黙を破る。
『失礼。不倫のお誘いは光栄ですが、身重の妻の前でしたい話ではありませんので』
壁越しで多少くぐもってはいたものの、その言葉ははっきりと私の耳に届いた。
「……………」
いつもの笑顔が目に浮かぶような柔らかな声。優しい優しいその口調で、
――今、なんて言った?
『えっ!? 奥様なんですか!? 嘘、だって、この前は居なかったのに』
信じられない、というように彼女が声を上げる。
安心してください、ここにも信じられない人間がひとりいますから。
『数日前から手伝ってもらってるんです。安定期に入ったので』
流暢に、どこまでも流暢に、一片の淀みもなく彼は答える。
『とは言え、申し訳ありません。あまり長くはひとりにしておけないんです。妻はすぐに無理をするので』
『……え、えぇ、じゃあ、私おいとましますわ』
呆然とした声と、双方が立ち上がる衣擦れの音。
『お支払いは振込で結構ですから』
『え、あぁ、そうね。そうします』
『ありがとうございました。気を付けてお帰りください』
笑顔で彼女を見送り事務所に戻ってきた上司は、パーティションの影で固まっている私に気が付いた。
「……あー、あかりちゃん?」
「はい」
「もしかして、聞いちゃった?」
「はい」
「…………ごめんなさい」
「~~~~っ、全部っ、この服渡したときからそのつもりだったんでしょう!」
サイズの合っていない服を着て、さらにストールまで羽織っていれば、実際の体型なんてわからない。つまり、この件は最初から全部計画済みだったのだ。
顔が真っ赤なのが自分でわかる。握りしめた拳は震えが止まらなかった。
涙を堪えた抗議の表情にバツの悪そうな顔をして、
「うん、まぁ」
目をそらして頬を掻いた上司は、短く肯定の言葉を口にした。
「っ、言ってくれれば、協力くらいしたのに……!」
「いや、だって、内容が内容だし、あかりちゃん嫌がるかなって」
「どっちみち嫌なことするなら教えてほしいです!!」
「ごめんって。これからはちゃんと相談するから」
「当たり前……って、ちょっと待って。これからもあるんですか?」
「多分。たまに居るんだよね、ああいうお客さん」
「……付き合ってあげたらいいじゃないですか。離婚するって言ってたし、藤井さん美人でしたよ」
腹いせのように嫌みを言ってやると、うんざりした表情で彼は答えた。
「旦那の浮気で傷心の私に優しくしてーってだけならまだいいんだけどね。ああいうタイプは自分の浮気を棚に上げてる場合がほとんどだよ。あの人は旦那の他に三人いるんだけどね」
――世の中って、こんなに狂ってるのか。
唖然とする私に、上司が苦笑する。
「お茶にしようか。僕が淹れるから」
「あ、今日は私がやります。この部屋寒いので一旦出たいです」
じゃあ一緒にやろっか、と連れだってキッチンスペースへ移動した。
上司が紅茶を淹れている間、茶菓子を用意する。
戸棚の一番端っこに焼き菓子の詰め合わせの箱がある。この前、林さんからもらったものだ。
クッキーとパウンドケーキをいくつか取り出して皿に載せたその時。
「…………あれ?」
「どうかした? あかりちゃん」
目に入ったのは、このキッチンスペースにあるエアコンの操作パネル。
「事務所の操作パネルって――」
それは入り口ドアのすぐ隣にある。毎日目には入っているけれど、触れたのは今日が初めてだった。
だから、違和感を覚えても、そんなものかと思っていた。
「――前からテプラって貼ってありましたっけ?」
「あかりちゃんさ、結婚願望ないって言ってたけど、」
笑ったまま、彼は私の質問をさらりと聞き流す。陶器のポットにたった今沸いたばかりの熱湯を注ぎながら。
「まさか、」
事務所へのドアを開け、入り口へ走る。目的はもちろん、操作パネル。
それに貼られた『真新しい』テプラに爪を立てる。
考えてみればおかしいじゃないか。
それほど広くもないこの事務所。ひとつしかない操作パネルに、どうして『事務所』なんて貼る必要があったのか――
ベリッと音を立て、剥がれたそれの下に現れた文字は――『集中管理中』。
「─!」
集中管理機能のあるエアコンの『子機』に表示される文字。
これが表示されているということはおそらくキッチンスペースにあるものが親機だ。
反応が悪いんじゃない。温度設定はここでは変更出来ないようにしてあったんだ――
計画の始まりは、服を渡した時じゃない。本当はもう一段階前、エアコンの電源を入れた時から、既に始まっていたのだ。
「もし結婚するときは気をつけて。――結構騙されやすいから」
かくして私は、この事務所に所属して二回目のヒステリーを起こすことになる。
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