真っ白な丸襟ブラウスにチェックのプリーツスカート。胸元にはエンジのリボンタイ。
トイレの個室から出てきた自分を大きな鏡が迎え、
――ぐえ。
童顔なのは自覚していたが、あまりの違和感のなさに、自分で顔をゆがめた。
最後の仕上げに、やたらとボリューミーなテールウィッグ。
「……さて」
午後九時四十五分。対象者の追跡を開始する。
バスと電車を乗り継いで辿りついたのは繁華街。近くに住んでいるのか、飲み会にでも顔を出すのか。
移動中も適度に人の多い状態で助かった。多すぎても補足するのが大変だが、少なければ断念するところだった。
三度目の正直。……まぁ、見失っても構わない。また最初からやり直すだけなんだから。
そもそも普通尾行はふたり以上ひと組。ひとりで尾行って段階で、多分に問題があるわけで。
「あー、うん。そうなんだよね」
誰とも繋がっていない携帯で、誰かと話している振りをしながら、あくまで自然に、対象者を追う。
ゆっくりと、それでいて軽やかに、対象者は歩を進める。
繁華街を通り抜け、少し薄暗い道を歩くと、今度はホテル街に出る。
「…………」
金曜日というのもあってか、人気は少なくない。ネオンのきらびやかな建物へ、ひと組、ふた組と吸い込まれていく。対象者を尾行するにあたって、この通りが閑散としていないのは有り難かった。ただ、この格好は間違いだったかもしれない、と後悔し始める。ひと組のカップルに、ちらりと流し見られて、思わずうつむいてしまった。
「────っ」
顔を上げるまで、たった数秒。それでもそれは確実な落ち度。
――見失った……!
無意識に、早足になる。落ち着け。この付近の分かれ道はそんなに多くない。
最後に後ろ姿を確認した地点から一番近い路地へ、足を向ける。
――……居ない。
誰もいない路地を、薄暗い街灯が照らしていた。自分の失敗を確認すると、立ち止まったまま、目を閉じる。身体のどこかから、空気が抜けていくような感覚。深呼吸のような、静かで長いため息が口をつく。
「――はい。そこまで」
――唐突に。
ポンと、肩に手が置かれる。
「────っ!」
振り返った私を見下ろして、
「三回目の尾行、ご苦労様。あかりちゃん」
対象者、城ノ内紘はくすりと笑う。
「でも、この場所にその格好は家出少女みたいでいただけないね。危ない奴に連れ込まれたらどうするの」
いつもと変わらない優しい口調で、説教じみたセリフ。本当に子供に注意するみたいに。
忌ま忌ましさに、思わず目をそらす。
――最悪だ。
言い訳は思いつかない。いや、思いついたところで無駄だろう。
『三回目の尾行、ご苦労様』
彼はどこまで知っている? ただ知らない振りをしていただけで、すべてお見通しだったんじゃないのか。
――それなら、それで構わない。
目的のひとつ――『彼の自宅を突き止めること』は出来なくとも、
私の一番の目的は、絶対に達成してみせる――
「君も尾行は下手なんだね。宮原調査事務所の元調査員、園田あかりさん」
彼はもう、知っていることを隠さない。
「演技は上手なのにね。もったいないなぁ」
「……最初からわかってて私を雇ったんですか?」
彼はいつもと同じようにこちらへ笑いかける。
「買いかぶりだね。さすがによその調査員ってのは最初はわからなかった。雇った理由は、君の履歴書が、ほとんど全部嘘だったからだよ」
「――はは」
無意識に、乾いた笑いが漏れた。何が『信頼出来る人間と判断しました』だ。彼は私をこれっぽっちも信頼なんてしていない。結局、泳がされてただけじゃないか。
「職歴も住んでる家もわかった。けど、どうしてもわからなかったことがある」
「……わからない? へぇ」
嘲笑する。それが自身に向けたものなのか、それとも目の前の彼に向けたものなのかは自分でもわからなかった。
「教えて、あかりちゃん。――依頼人は誰?」
まっすぐにこちらを見据えて、笑みの消えたその顔で、彼が問う。
「…………っ」
瞬間、湧き上がったその感情を噛み殺して、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「推理、してみたらいかがですか? 探偵なんだから慣れてるでしょう?」
投げかけた言葉は、苛立ちを隠しきれていなかった。
「推理ってのは不足してる情報を補うためにするものだよ。あいにく俺には縁がなかったから、慣れてはいないね」
「――なら今、経験を積んでみたらいかがですか」
路地の低い塀へ腰掛けて、目を細める。
「私が、採点してあげますから」
「……っ」
今度は彼が言葉を詰まらせる。何度か視線を泳がせると、ゆっくりと目を閉じた。
わからなかった、と彼は言った。
膨大な情報を集めることの出来る彼は、その分証拠主義だ。確証のないものは信用しない。
今回の件で、確信となるものが掴めなかったのは、彼のネットワークから意図的に外されたところがあるからだ。
木下徹と橋爪直樹は、現在の彼のことを――城ノ内紘のことをほとんど知らなかった。あの人たちはネットワークには組み込まれていないのだ。
五歳の時から行動を起こしてきた彼が、一番効率がいいはずの学校で『友達』を作らなかった。その理由は、彼の本当の姓にある。『結構いいトコの子』――実際はそれどころじゃない。彼が持っていたのは、誰もが顔色を変えるこの街一番の権力者の名前。
彼の目的にとっては重くて邪魔でしかない苗字を隠し、母親の旧姓を借りて『城ノ内紘』は誕生した。
二十年近く二つの名前を使い分けていた彼は、家を出ると同時に、本来の自分とそれに直接関わるものすべてを、あっさりと切り捨てた。
今回の答えは、その時欠落した部分にある。だからこそ、彼には『わからない』のだ。
静かに、彼が目を開く。微笑みを浮かべた口元とは対照的に、その視線は冷たい。
大きく一度、ため息をついて、彼は回答を口にした。
「……じゃあ、回答するね。依頼人はおそらく、穂積修司。俺の、父親」
「理由は?」
「この街で俺のネットワークに引っかからない人間、そのうえ人を雇ってまで俺のことを調べようとする人間は穂積の家以外に考えられない。あまり考えたくはないし今さらな気もするけど、連れ戻すため、とかそういうことかな」
「…………」
彼の回答を噛みしめるように、一度目を閉じる。またひとつ、大きく静かな深呼吸。
それから塀から降りてスカートを軽くはたき、ゆっくりと彼に近づいた。
「あかりちゃん、解答は?」
彼はどこか寂しげにこちらを見下ろす。
愛すべき裏切り者に対するその視線に、にっこりと笑ってやる。
パン、と乾いた音が辺りに響いた。
「不正解です」
反射的に頬を抑えて、呆気にとられている彼をまっすぐに見上げる。
「依頼人なんて居ません。強いて言うなら、私本人です」
「……は?」
「自己紹介が遅れましたね。初めまして、穂積紘さん」
きょとんとした顔。それに向けた目的達成の笑顔は、我ながら会心の出来だった。
「私は『西園』あかり。あなたに逃げられた――元婚約者です」
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