「テキスト」カテゴリー
今まで書いたショートショート・小説等、文章置き場です。
拙すぎてカテゴリ名を「小説」とするのすらおこがましい気がしたので「テキスト」。
基本的にどんでん返しを目標に書いてたり、書いてなかったり。
高校時代とかに書いたものも結構あるので正直黒歴史ですが、面倒なので開き直って手直しもいいわけもなしです。
いくつかはイベントで無料配布した「夢見るものたち」に収録しています。
投稿が「夢見るものたち」より前の分に関してはほぼ全部学生時代に書いたもの。
ツッコミどころが満載なのは自分でわかってますので、そこは流していただけるとありがたい。
最近のもツッコミどころが多いのは大して変わりませんが、まぁ、まだマシかと。
伏線を意識し始めたのはCANDY ×GAMEシリーズの途中あたり(2005年)から。
そのへんから書くものがガラッと変わった気がします。
#11 秘密
2014/10/04 00:49 □ 城ノ内探偵事務所
「あかりちゃん、なんにする?」
タクシーをつかまえてまで連れて行かれたのは繁華街の片隅にあるイタリアンレストラン。
小さめの個室に通され、手渡されたメニューを眺めながら、上司がこちらに尋ねてくる。
「……なんでもいいです」
いつもふたりで過ごしているけれど、向き合って座った経験はあまりない。面接の時を思い出して、何故だか緊張した。
「じゃあ、おすすめのセットにしとこっか」
「はい」
高級店というわけではなさそうだが、サラリーマンが日々の昼食に選ぶほどの価格でもなさそうだ。
上司が注文を済ませて数分、並べられたカトラリーの中に箸を見つけてなんとなくホッとする。口の中が乾いている気がして、出された冷水に口を付けた。
そんなこちらの様子に気付いたのか、彼が不思議そうに見つめてくる。
「なんか、緊張してる?」
「……っ、はい」
一瞬言葉を詰まらせた私に、なんで、とおかしそうに笑う。
相変わらず子供のような、幼い笑い方。息がしづらい。優しいはずのその目は、真正面から相対すると、やっぱりすべてを見透かしているようで――怖くなる。
「せっかくここまで来たのに、そんなんじゃ味わかんないよ?」
冷水をひとくち含んで、彼が目を細める。
「ま、今日はお客さん来る予定もないし、昼休み長めでいいから、ゆっくりしよ」
そう言いながら、携帯に目をやる。
「…………」
視線が外れたからか、金縛りから解放されて、私は彼に聞こえないよう、静かに安堵の息を吐いた。
*
「ん、なかなかよかったね」
最後の飲み物が運ばれてくると、コーヒーのカップを持ち上げながら、上司が笑いかけてきた。
「はい。ごちそうさまでした」
こちらも紅茶のカップに口を付け、その熱さに一旦口を離す。
食事中、私の心中を察してか、極力視線を合わせないようにしてくれたおかげで、料理は落ち着いて味わえた。
「どういたしまして。ま、悔しいかな賭けに負けたのは俺だからね」
「負けるつもりだったくせに」
少なくとも途中からはそのつもりだったはずだ。
くすりと笑い合いながら、いつの間にか彼の一人称が変わっていることに気付く。これが、本当のこの人なんだろうか。観察するような視線を向けると、またふと目があってしまった。
「あかりちゃん」
「……はい」
「何か、俺に聞きたいことあるよね」
微笑みをたたえたまま、彼はそう言った。
わずかに冷たくなった視線に、ドキリと心臓が跳ねる。
「いいよ、聞いて。答えるかはわからないけど」
聞いたことがあるセリフ。あの時は答えてくれたけど、今度はどうだろうか。
知りたいけれど、知ってはいけない。そんな気がする。
彼にとって他人が立ち入ってはいけない領域に、踏み込んでしまう気がする。それでも――
「城ノ内さんは、――なんで探偵なんてやってるんですか?」
絞り出すように口にした質問は、私が本当に、一番知りたかったこと。
上司は少し意外そうな顔をして、
「……なんだ。そんなことならわざわざ徹たちなんかに聞かなくてもよかったのに」
「っ、知ってたんですね」
「あぁ、あいつらが告げ口したわけじゃないよ。その時、居酒屋に俺の友達も居たってだけ」
「……一体何人いるんですか、城ノ内さんの友達って」
舌打ちしそうなこちらの顔に笑って、
「じゃあ、その質問にも答えようか」
一度目を閉じ、小さく頷いた。
「あかりちゃんはさ、小さい頃、将来の夢ってあった?」
「……はい、まぁ一応。お菓子屋さんとかそういうのですけど」
「ん。俺はね、五歳の時に探偵になりたいって思ったんだ」
「五歳?」
「そ」
「五歳で探偵って……テレビか何かで見たんですか?」
「いや、五歳の時に誘拐されてね。俺、結構いいトコの子だったから。で、もちろん警察も動いてたけど、助けてくれたのが、親が雇った探偵。交渉人の経験もある人だったみたいだね」
誘拐。それはさすがに想定外だった。絶句するこちらに笑みを向け、彼は続ける。
「その日から、探偵になるのが俺の夢になった」
「……夢」
「残念ながら、俺はIQ180の天才でもないし、怪しげな薬で子供になったわけでもなかったからね。 その分、夢を夢で終わらせない程度の努力はしたつもり。おかげで今の俺がある」
これでひとつめの質問の答えになるかな、と。
「……五歳の頃から、ずっと、探偵になるつもりだった?」
「まさか。当時は本気だったけどね。幼い間ならともかく、成長するごとに自分の立場はわかってくる。腐ってもひとり息子だったから家継ぐとか色々ね。実際叶えられるとは思ってなかったよ」
そう言って苦笑する顔は、どこか寂しそうで、そしてどこか冷めた色をしていた。
「それでも諦めきれなくて、悪あがきは続けてきた」
「悪あがき?」
「あかりちゃん、探偵に必要な能力ってなんだと思う?」
「……っと、観察力とか推理力? 情報収集能力、あとは追跡能力とかですか? 城ノ内さんは情報収集能力に特化してますよね」
「うん。『情報を制する者は世界を制す』が俺の信条だからね。『探偵業の業務の適正化に関する法律』ってわかる?」
「……。いや、わからないです」
首を振ると、彼は、不勉強だなぁ、と肩をすくめた。
「平成十八年六月に出来た法律でね。第六条、探偵業務の実施の原則。『探偵業者及び探偵業者の業務に従事する者は、探偵業務を行うに当たっては、この法律により他の法令において禁止又は制限されている行為を行うことができることとなるものではないことに留意するとともに、人の生活の平穏を害する等個人の権利利益を侵害することがないようにしなければならない』」
「…………」
「つまり、探偵業として尾行調査や聞き込み調査ってのは法的に認められてるけど、対象者に気付かれれば罪になるってこと。なら、尾行の出来ない俺は情報を得るためにどうするか」
「……それが、他人を使うことですか?」
「間違ってはいないけど、正解ともちょっと違うかな。探偵業法では探偵業者以外への委託は禁じられてるし」
「……え? じゃあ」
「聞き込みに関しては知っていることを教えてもらってるだけだし、尾行もただ、GPSで、たまたまその場にいる友達に連絡を取って、写真を撮ってもらってるだけ。テキストのほうは実際に尾行してるようにでっち上げてるけどね」
思わず顔を歪める。その手法の是非はともかく、詭弁としか思えなかった。
「……まさか。不可能です。そんなに都合よくいくわけないじゃないですか」
「まぁ、そう思うだろうね。実際上手くいかないこともないわけじゃないし」
「信じられません。大体、そんなことやろうとしたら、どんな人数――」
そこまで言って、彼と目があう。静かに、ただ、笑っている上司。
「――それが、悪あがき?」
「だから、友達を作ったんだ。五歳の時から。最初はひとつの建物にひとり。ひとつのフロアにひとり。ひとつの会社にひとり。ひとつの部署にひとり。毎日最低ひとりずつ友達を増やしていった。情報は力になる。それは探偵じゃなくても同じだよ。そうやって、――城ノ内紘は力を手に入れた」
「────」
言葉を失う。ゾワリと、冷たいものが背中を駆け抜けた。
優しい笑顔のまま語られるそれは、紛れもなく、彼の執念の物語。
「もうひとつの質問に答えるよ、あかりちゃん」
カップの中身を飲み干して静かにソーサーへ返すと、彼は固まったままのこちらの表情に苦笑する。
「この街の人口は約十万人。その十分の一が俺の『友達』なんだよ」
*
「道ゆく人の十人にひとりが情報をくれるなら、ある程度の調査は可能だと思わない?」
そんな言葉で話を締めくくって、彼は片隅に置かれた伝票を手に取った。
「……帰ろっか。紅茶、冷めてるからもう飲めるでしょ?」
そのセリフでやっと、カップの取っ手を持ったままだったことに気が付く。
「……はい」
口を付けると、言われたとおり、私でも飲める温度になっていた。
そのまま一気に飲み干して、椅子から立ち上がる。
「ありがとうございました」
「ん。満足したならよかった」
こちらへ笑いかけた彼のその言葉は、きっと二重の意味を持っている。
『聞きたいことが聞けたなら、もう探らないでね』
要するに、拒絶に近い。彼から直接話を聞いたことで、逆に彼との距離は遠くなってしまった。
それを辛く思う必要はないはずなのに、胸のどこかが痛む。
もしかしたら、私は彼が好きなのだろうか。恋愛感情かどうかはわからないけれど。とにかく、自分が今の状況を気に入っているのは確かだ。失わずにすむならそれに越したことはない。
「…………」
大通りまでの道。並んで歩きながら、ふと隣の彼を見上げる。
視線に気付いた彼がこちらを向く前に、慌てて顔の向きを前に戻す。
「城ノ内さん」
「ん?」
「もうひとつ、質問していいですか?」
「いいよ。答えるかはわからないけど」
彼はまた、いつものセリフを口にする。結局、いつも答えてくれるけれど。
「家を出たって聞きました。それって、夢を叶えるためにってことですか?」
「いや、あー……、家を出たのは別の理由」
「別?」
口に出してから、失言に気付く。
木下徹も橋爪直樹も、実家については話したがらない、と言っていた。
一瞬、間をおいた後、苦虫を噛みつぶしたような顔で、彼は答えてくれた。
「……恥ずかしながら、五年前、とある事情で親と大喧嘩してそのまま家出。まぁ、そのきっかけがなきゃこうやって探偵することもなかっただろうし、よかったのかもね」
――あぁ、そうか。
いつかの記憶が蘇る。息子を捜してほしいという吉岡夫人へ向けた、あの冷たい表情。
あれは吉岡夫人へ向けたものではなくて、彼女を通り越して自分の親へ向けたものだったのか。
タクシーはすんなり捕まった。
深呼吸をひとつ。
切り替えて、通常運転に戻ろう。今日もまだ仕事が残っているんだから。
#10 結婚調査
2014/10/04 00:48 □ 城ノ内探偵事務所
「あかりちゃん、あのさ」
固定電話の受話器を置き、こちらに向き直る上司。
最近やっと私の邪魔をせずに電話をすることを覚えた彼は、苦く笑いながら、
「結婚願望、ないままだよね?」
妙な言い方で、以前と同じ質問を投げかけてきた。
「はい」
「……本当に?」
「はぁ。なんなんですか?」
「今から依頼人が来るから同席してほしい。今回はそういう振りとかしなくていいから」
「いいですけど」
今はその辺も業務の一環だ。振りをするのもOKなんだから振りをしなくていいならもちろん断る理由はない。
「厄介な依頼なんですか?」
「いや、結婚調査の依頼」
「結婚調査?」
「結婚前に相手の身上調査とかする人がいるでしょ? あれ」
「あぁ、なるほど。難しいんですか?」
「いや、尾行もないし、情報集めるだけだから僕からすれば比較的簡単。でも依頼人がちょっと苦手でね。一緒に居てほしいけど、多分、残りカスみたいな結婚願望でも持ってるなら同席しない方がいいから」
「まぁ、とりあえず問題ありませんよ。じゃあお茶入れて一緒に居ますね」
笑いながら、頷く。
ここまで言われると逆に興味が出てくる。正直、どんな依頼人なのか見てみたかった。
*
依頼人が出て行って数分。ふたりしてキッチンスペースへ直行し、三時のお茶の準備をする。なんとなくココアを選択し、無言で牛乳を沸かし、無言でカップを用意する。いち早く落ち着きたい。
沈黙を破ったのは、上司の疲れた声。
「……強烈だったでしょ?」
「……はい」
こちらの応答も想像以上に疲れた声になった。
「確かに、結婚願望の残りカスも吹き飛ぶような姑さんですね」
依頼人は五十代の女性、川村洋子。依頼してきたのは、自分の息子が結婚相手として連れてきた女性の身上調査だった。
『うちの子は騙されてるわ。絶対ろくでもない女に決まってるのよ!』
夫人のセリフが、頭の中でこだまする。
「あの絶対的な確信は……何か根拠があるんでしょうか」
「ないだろうね。女の勘云々よりは、単に息子取られて悔しいだけっぽい」
「……過保護っぽいですしね」
「息子、僕と同い年みたいだけど、それが嫌で家出たらしいね。礼儀は重んじる人らしくて、結婚するとなると挨拶くらいはしなきゃってなるみたい。ほっときゃいいのに、ったく面倒な」
そう言って笑う。が、本気で面倒らしく、目は笑っていない。
「城ノ内さん、あの人リピーターなんですよね?」
「残念ながら、三回目だね」
「ってことは息子さん、過去二回は結婚駄目になったってことですか?」
「……まぁね。さすがに、僕の立場で調査結果を報告しないわけにはいかないし」
思わず、かわいそう、という言葉が浮かぶ。あんな姑の攻撃材料にされるのがわかっていても、個人の過去を洗いざらい調べて提供する。この職業は罪深い。
「……こういうのって、罪悪感とかありません?」
「まぁ、まったくないことはないかな。ただ、中絶経験三回のうえ浮気がバレてのバツイチとか、結婚詐欺で服役した過去のある人を選ぶ息子に女性を見る目がないのは確かかもね」
「…………」
絶句。なんなんだ、どいつもこいつも。思わず頭を抱えた私に苦笑して、
「さて、息子にとって『二度あることは三度ある』になるか、それとも『三度目の正直』になるか。あかりちゃん、どっちに賭ける?」
冗談っぽく、そんなことを言う上司。
「賭けませんよ、不謹慎な。大体、城ノ内さんもうわかってるんじゃないですか?」
「いや、調査はまだだよ。対象者は友達でもないしね。現段階で、答えは僕にもわからない」
ひらりと、先ほど依頼人から受け取った対象者の写真をかざす。
調査対象者の藤田舞。写真の中で笑う彼女は、とても優しくて清楚なイメージ。
「負けた方が昼飯一回おごる、とかどう?」
笑いながら、食い下がってくる。
「嫌です。負けたらバカ高い店とか連れて行かれそうだし」
「そんなことしないって。あいにく金には困ってないからね」
どうやら結果などはどうでもよく、上司は何か変わったことがしたいだけらしい。
人の人生の掛かった問題でくだらない賭けをすることに抵抗を覚えつつも、しつこいので付き合ってやることにする。なら、賭けるのは、――せめて彼の幸せを祈って。
「――三度目の正直のほうで」
「OK。じゃあ、僕は結婚出来ないほうで」
*
一週間後。
午前十一時。報告書を持った上司に続いて、応接スペースへ入る。
先ほど出したお茶を飲み干して、川村夫人はこちらへ向き直った。
上司は軽く挨拶しつつソファへ軽く腰を下ろし、持っていた書類を目の前へ提示する。
「息子さんのお相手は、息子さんには及びませんが大きめの企業にお勤めの総合職で、家柄も申し分ありません。学生時代の成績も、お仕事のほうも非常に優秀。強いて言うなら学生時代、短期間ですが、友達に誘われたアルバイトで夜のお仕事をされていたことがあるようですね」
学生時代のガールズバー勤務。おそらくそれが唯一、川村夫人の望む情報だった。
「まぁ!」
「…………」
目を見開く夫人。怒っている素振りの中に、鬼の首を取ったような喜びが感じられた。
その他の素晴らしい情報を聞き流し、重箱の隅をつつくように叩けるところだけを耳に入れる。それみたことか。お母さんの言った通りじゃないの。そんな声が聞こえるよう。
せっかく、息子が今度こそ素晴らしい女性を見つけて、幸せになろうとしているのに。
――糞姑。
蔑みが顔に出たらしく、気付いた上司に視線で咎められた。
「…………っ」
うつむいて、悔しさに歯がみする。こちらはただ、依頼のままに情報を提供するだけ。例えそれが誰かの幸せを妨害するとわかっていても。
賭けは、私の負けだ。
「ありがとうございます。振り込みはまた後日」
嬉しそうに、いそいそと鞄に書類をしまう夫人。ソファから立ち上がる寸前、上司が制止した。
「川村さん、もう少しお時間よろしいですか?」
「……はい?」
「ご依頼とは別件になりますが、お耳に入れておきたい情報があります」
「まぁ、何かしら」
「息子さんのことです」
「幸彦の?」
――………?
別件の追加情報? そんな話は聞いていないし、報告書も作っていない。
上司の様子を窺う。いつもと同じ営業スマイル。
大変申し上げにくいことですが、と前置きをして、上司はその顔から笑みを消した。
「息子さんはお勤めの会社で多額の横領をされています」
「――えっ!?」
川村夫人の素っ頓狂な声。
「で、でも息子は、今も毎日会社に通って――」
息子は家を出ているはずなのに監視でもしているのか、動揺した夫人はそんな言葉で反論した。
「会社側が、横領した金額の弁済を条件に大事にしないことにしたそうです」
先ほどまで嬉しそうだった夫人の顔が、蒼白になっていく。
「その、金額は……?」
「およそ一億二千万」
「…………そんな、どうしたら」
息子の結婚調査に躊躇なく三十万を払うくらいだから、ある程度裕福ではあるのだろう。それでも大きすぎる金額に夫人はわなわなと震えていた。
「何もご存じなかったんですね」
「知っていたら止めています! あの子、なんでそんなこと……!」
「不明です。息子さんのお相手を調査している途中で判明したことであって、それを主として調べていたわけではありませんので」
「……そう、ですよね」
「ちなみに、この話は会社との間で既に終わっています。お金のほうも既に返還済みです」
「えっ!?」
川村夫人が二度目の声を上げる。
「そんなお金、……どうやって?」
「補填を申し出たのは、藤田舞さんのご両親です。先ほども申し上げましたように、家柄もよく、裕福でらっしゃいますので――息子のためなら、と」
「─」
血の気のない顔のまま絶句する夫人へ、追い打ちのように上司が笑う。
「余計なことかもしれませんが、息子さんのためにも、あなたがたのためにも、ご結婚は反対なさらないほうがよいのでは?」
魂が抜けたように呆然と出て行く夫人を、営業スマイルで見送った後、
「踏み倒されるかもな」
ボソリと、上司が零す。
「まぁ、いいか。二度と来ないだろうし」
「……本当なんですか、あれ」
「ん?」
「横領とかって、……最悪じゃないですか。どっちもどっちどころか、あれじゃ舞さんが」
「あぁ、あれね」
私の言葉に、くすりと笑って。
「嘘だよ。川村幸彦は横領なんかしてない。極々普通に会社員やってるさ」
「…………は?」
「軽く調べたのは本当だよ。同じ会社に友達が居るからちょっと情報もらった。真面目で優秀な経理課主任は母親に執着されて困ってるって有名だ。ついでにあの夫人はご近所でも有名。どういう意味でかはご想像にお任せするけど?」
「だから、嘘教えたんですか? 信用に関わるんじゃ……」
「僕が依頼されたのは藤田舞の身上調査だけだよ。あの報告書に嘘はない」
キッパリと彼が言う。それは、自分の仕事に自信を持つ者の強い口調だった。
「あかりちゃん。僕は依頼のひとつが完了したから、『もうひとつの依頼』に基づいて行動しただけなんだよ。これ、誰からの依頼かわかる?」
「……まさか」
「そ。母親から逃げたい息子から、ちょっとした情報操作の依頼。ちなみにガールズバーで働いてたことに関しては、川村幸彦も承知してるよ。ふたりの最初の出会いがそこなんだから」
「…………」
言葉が見つからない。ぽかんと口を開けたまま固まっていると、不意に頭に手が置かれた。
「さ、準備して。賭けは俺の負け。昼飯食いに行こう」
笑いながら、上司は脱いだ上着からポケットに財布を移す。
「────」
私は今さら、あの賭けが遠回しすぎるランチのお誘いだったことに気が付いた。
#09 聞き込み調査
2014/10/04 00:46 □ 城ノ内探偵事務所
「すみません、『徹』さんですか?」
午後八時。郊外の居酒屋で声を掛けたのは、チャコールグレーのスーツに身を包んだ男性。目印の赤いネックストラップにはこの街ではそこそこ名の知れた会社のロゴが入っていた。同じ会社に勤めているはずのもう一人の姿は見えない。
「『あかりちゃん』? 初めまして」
「初めまして。すみません、お時間いただいてしまって」
「構わんよ。君の顔見てみてたかったし。もうひとりは後から来るから、まぁ座って」
促されるまま、隣へ腰掛けた。カウンターの端っこの席。
木下徹と名乗ったこの男性と連絡を取ったのは、例の電話の翌日のことだった。ぞろ目で印象に残りやすかったその番号を、自分の携帯で叩く。不審そうな声ながら、八回目のコールで彼は電話に出てくれた。
「突然申し訳ございません」
上司である城ノ内紘について、少し話を聞きたい。そんな突然のお願いに面食らいつつも、彼は私と会うことを快く了承してくれた。彼は新婚らしく、万が一にも妙な疑いをもたれないように、もうひとりの友人、橋爪直樹も一緒なら、と条件を付けられたが、こちらとしては願ったり叶ったりだった。情報源は多い方がいい。
さらに二日後。指定されたのはこの小さな居酒屋。結局もうひとりはトラブル対応とかで遅刻予定らしいけれど。
事務所へ入って約一ヶ月。ほぼ毎日を一緒に過ごしているけれど、上司には謎が多い。
毎日事務所で寝泊まりしているわけではなさそうだが、どこに住んでいるのか。何故たったひとりで探偵事務所なんていうものをやっているのか。彼に休日があるのかはわからないが、あるとしたらどこで何をしているのか。そして、上司曰くは『多い』、木下徹曰くは『少ない』という『友達』について。
私は何も知らない。知る権利も、知る必要もないことだと言われるかもしれないけれど、それでもなんだか悔しい。
「趣味嗜好とか、なんでもいいです。城ノ内さんについて教えてください」
「んー、俺も直樹も、そんなに知ってるわけじゃないけどね」
「おふたりは上司とどういったご関係なんですか?」
「高校ん時の同級生だったんだよ。別に、特に仲良くもないただのクラスメイト」
「? 友達じゃなかったってことですか?」
「そ。あいつに対してはみんなそんな感じ。あいつ、あー、……結構いいトコの子でさ。正直付き合いづらかったんだよね。暗いっていう感じじゃなかったけど、全然笑わないし、近寄りがたいっていうか」
「…………へぇ」
意外な過去。今の上司しか知らない自分には、笑わない上司など想像も付かなかった。
「俺も直樹も、高校時代にあいつと話したのなんか数えるくらいじゃないかな」
「じゃあどうして今は……」
「何年か前、たまたま繁華街で会って一緒に飲んだんだ。家出たって噂は聞いてたけど、当然同窓会にも出てこないし、話聞かせろよって。ま、実際は出来上がってた俺らが無理矢理拉致って連れてったんだけど。素面ならそんなこと出来なかっただろうな。途中まではすげぇ嫌がってる顔だったし」
「途中まで?」
「ん。あいつ酒めちゃくちゃ弱いから、ちょっと飲ませたらソッコーで潰れたんだよ。で、介抱してるうちにうち解けた、って経緯。今じゃ誘ったら短い時間だけ付き合ってくれるよ、酒抜きでね」
そこまで話して、彼は視線を上げた。
「おぉ、お疲れ。なんだ、早かったな」
「お疲れ。っと、君が『あかりちゃん』?」
もうひとりの到着。会釈で回答した。
「話ほとんど終わっちまったよ」
「まぁ、紘に関しちゃ俺らもほとんど知らないからな」
「あかりちゃん、こいつがこの前紘潰した犯人ね」
「もうちょっと飲めるようになってるかと思ってたのになぁ」
「あいつは無理だろ。でもまぁ、酔わせたから聞けたんだよ、君の話も」
「……私のこと、なんて言ってたんです?」
ウーロンハイの入ったグラスを傾けながら、隣の男はからかうように笑う。
「『面白い子なんだ』って」
「そうそう、そりゃもう楽しそうにさ。徹が嫁のこと話す時そっくり」
橋爪直樹のそんなセリフに、新婚・木下徹が吹き出した。
「今日はありがとうございました。お話、聞けてよかったです」
「いや、大した情報なくてごめんね」
「しかし、あかりちゃん強いね! 紘と正反対だ」
「いえ、それほどでもないです」
真っ赤になったふたりに見送られながら、ひとり帰路につく。
知りたかったことは何もわからなかった。それどころか、彼らは城ノ内紘が探偵をやっていることすら知らなかった。
それでも、話を聞けてよかった。それは本心だった。
『面白い子なんだ』
頭の中で、実際には聞いていないセリフが、上司の声で再生される。
「…………人の気も知らないで」
零れた独り言は、暗い夜道に吸い込まれて消えた。
#08 友人
2014/10/04 00:44 □ 城ノ内探偵事務所
藤井夫人の一件から一夜。
さすがにあれだけ喧嘩を売られたあとにその本人からなだめられてもそう簡単に機嫌は直らず、昨日はむすっとしたまま過ごしてしまった。上手くやらないといけないのはわかっていても、どうにもおさまりがつかない。
午前九時十五分。切り替えきれずにもやもやを抱えたまま、私は事務所のドアの前にいた。
「……ん?」
ドアノブをひねると、妙な抵抗。
――……鍵? 城ノ内さんまだ来てないのか。
「っと、どこ入れたっけ」
鞄の中から鍵を探し出す。
『あなたを信頼出来る人間と判断しました』
あのセリフは本気だったらしく、初日の帰り際、今となっては見慣れた笑顔で渡された合鍵。それは信頼という名の枷でもあり、複雑な気分になったものの、幸い上司は私より早く来て遅く帰るので使ったことはなかった。
なんとなく緊張しながら鍵を回す。カチャリと小さく、無機質な音がした。
「……おはようございまーす」
誰もいない事務所に、小さく小さく挨拶する。当然返事は返ってこない。その代わり、湿っぽく淀んだ空気が私を出迎えた。
今日はまた暑くなると天気予報で言っていたのを思い出しながら、エアコンの電源を入れる。パネルを見た瞬間、昨日の嫌な記憶に眉間が反応して、落ち着け、と自分をなだめた。
風が髪をかすめていくのを感じてから、自分の椅子に引っ掛けてあったカーディガンに腕を通す。
設定温度を上げても風が当たるのは変わりなく、結局カーディガンは借りたままになっていた。
自分で服を持ってこなかったのは、事務所内でしか必要ないことと、上司への嫌みを込めて。そして正直、いくらサイズが合わなかろうと、嫌な思い出があろうと、商店街で九八十円のたたき売り商品より、高級ブランドタグの付いたカシミヤのホールガーメントのほうが着心地が良かったのだ。……ちっ、金持ちめ。
「……なんか、違和感あるなぁ」
パソコンを立ち上げながら、思わず苦笑する。窓際の席にいつもいる人がいない。ただそれだけの違いなのに、まるで違う場所のようだった。
まずはメールを確認。上司から三件のメールが来ていた。最後の受信時刻は四時十三分。彼の仕事のやり方は未だ色々と謎に包まれているが、なんだかんだでよく働いているようだ。
「……なんだこりゃ」
なんとなく最後のメールを開くと、思わずそんな呟きが漏れた。予測変換のオンパレードなのか、言葉と言葉の繋がりがすごい状態になっている。どうやらさすがの上司も眠かったらしい。
以前の暗号を彷彿とさせるが、日本語であるだけマシか。なんとなく大筋は読み取れた。
――これは城ノ内さんが来てからにしよう。
まずは、昨日の続きから手を付けた。
「…………」
が、キーボードを叩き始めても、なんだか落ち着かない。
「……紅茶でも淹れようかな」
静かなほうが集中出来ないなんて不思議なもんだ。独り言が多いなぁ、なんて、自分でツッコミを入れながら、キッチンスペースへ向かった。
*
そこで見つけたのは、誰かの足。
「─っ、」
一瞬、身体が跳ねた。
キッチンスペースの奥の部屋。中途半端に開いたドアの影から、ソファに乗った足が見えていた。もちろん、血まみれになった死体の一部なんぞではなく、生きた人間にくっついた状態での発見だ。
中を覗き込むと、狭いからか事務所よりさらに薄暗い。物置兼仮眠室といったところか。物の溢れかえった中にギリギリ横になれるくらいのソファ。そしてその上で、上司が安らかな寝息を立てていた。
「……なんだ。居たのか」
眠りは深いようで、こちらの呟きにもまったくの無反応だった。
「…………」
ふと湧き上がったその衝動を無理矢理抑えつけて、小さく深呼吸。
「……城ノ内さん、起きてください。もう朝ですよ」
無反応。
「城ノ内さん、起きてくださいってば」
無反応。
「起きないとどうなっても知りませんよ?」
無反応。
頼むから早く起きて。――この衝動を抑えきれなくなる前に。
「……城ノ内さん?」
呼びかけながら、彼の額に手をやる。無反応な彼の代わりに、さらりと前髪が私の指を撫でた。
起きているときよりさらに幼い、子供みたいな寝顔。穏やかで無防備なその寝顔――
「……っ」
息が詰まる。自分の心臓が耳元へ来たみたいにうるさい。
もう一度、前髪に指を絡ませる。
――何、しようとしてるんだ。
息を殺して、ほんの少しだけ汗ばんだその額に触れた。
まだ、反応はない。自分を止めるきっかけが欲しいのに、阻んでくれるものは何もない。
「…………」
額の指はそのままに、もう片方の手で、ポケットの水性サインペンを取り出す。
あぁ、せめてここにあるのが油性ペンだったなら、もう少し良心が咎めてくれただろうに!
自分で自分を止められない。とにかく昨日の腹いせがしたくて仕方ない。
震える手で、ペン先を彼の額に向ける。
肉とか書いたら、城ノ内さん、さすがに怒るだろうか?
復讐の刃が彼の額に届く寸前、だった。
「─」
突然、彼の枕元で起こった振動音に、我に返る。
携帯の着信。マナーモードになっているのか、バイブのみで着信音は流れなかった。
「……『徹(とおる)』?」
画面上に表示されている名前を読み上げる。『友達』のひとりだろうか。
「城ノ内さん、お電話ですよー」
声を掛けても、手を叩いてみても、上司の肩を叩いてみても、揺さぶってみても。そこまでやっても彼は起きる気配すらなく、三十秒後、振動音は途切れた。
「…………」
お手上げだ。諦めよう。そのうち起きてくるだろうと、ティバッグの紅茶を淹れて一旦自席へ戻った。
が。
――気になる。
振動が止むことはなく、一分と空けずに着信は続いた。
音は出ていなくても、振動が気になって仕方ない。
「もう、うっとうしいなぁ」
再び眠り姫もとい上司の元へ戻り、電話に出てみることにする。
部屋に戻ると狭い空間だから余計なのか、事務所で聞くのと比べて振動音はずいぶんと大きい。
「脳の異常とかじゃないよな、これ」
相変わらず無反応の上司に、ふと恐ろしい想像が頭をよぎる。振り払うように、振動する携帯に手を伸ばした。
「……はい」
客の可能性もあるから、下手なことは言えない。ただ名乗るだけでも、万一、藤井夫人のような相手だった場合にややこしいことになりそうだ。まぁ、名前からすると男性らしいが、関係者である可能性も否定出来ないわけだし。
『紘(コウ)?』
「はい?」
『あれ? これ、……えっと、城ノ内の携帯じゃないですか?』
「あぁ、はい。そうです。今ちょっと本人が出られないので、代理で出させていただいたんです」
『あー……、ひょっとして、紘、寝てます?』
ラフな話し方。どうやら仕事の依頼人ではなさそうだ。
「よくご存じで。さっきから起こしてるんですけど、全然で」
『やっぱり。……おい、直樹。お前が飲ませっからだぞ』
どうやらもうひとり居るらしい。『徹』とやらがもうひとりに語りかけると、低い笑い声が向こう側で響いた。相変わらず弱えなぁ、と。
「あぁ、昨日ご一緒だったんですか?」
『はい。と言ってもそいつが居たの三十分だけですけど。ちゃんと帰れたかちょっと心配だったもんで』
三十分。それで帰りの心配をされるって、城ノ内さんそんなに弱いのか。衝撃の事実を知ると同時、例の破壊的テキストにも納得がいった。
「残念ながら、家には帰ってませんね」
『あー……そうですか。すんません。多分、もうそろそろ起きると思うんで。ところで、えっと、どちら様? あ、こっちは城ノ内の友人なんですけど』
「私は部下です」
『あぁ、もしかして噂のあかりちゃん?』
「……はい」
噂ってなんだ。飲み会で何を話した城ノ内。
わずかな間でこちらの思いをある程度把握したのか、『徹』は続ける。
『君のこと珍しく気に入ってるみたい。彼女でも出来たのかと思ったくらい楽しそうな話し方だったから』
顔も知らないのに、ニヤニヤと笑っている様子が目に浮かぶような、そんな話し方。
少し、苛立つ。この電話の相手にも、先ほどの予言通りわずかな日光で眉間に皺を寄せ始めた傍らの上司にも。
もう、声は届くだろうか。
「……まぁ、そうですね」
『……へ?』
「あかりちゃん……? あれ、今、何時?」
「ある意味恋人以上かもしれません」
「俺の携帯? ……誰から?」
寝ぼけ眼で身を起こす上司を見下ろして、にっこりと笑ってやる。
「一度、孕まされましたから」
「────!! ちょっ、」
気付け薬としては最高だったらしく、一気に顔色が変わると同時、彼は私の手から乱暴に携帯を奪い取った。
「もしもし!? 徹か! 嘘だからな今の!!」
焦る上司の耳元から、ゲラゲラと大笑いする声が漏れだす。彼は笑い声に対して一通り弁解すると、何故か再び、非常に嫌そうに、こちらへ携帯を差し出してきた。
「……代われって」
余計なこと言わないでよ。そんな思いが滲み出たようなじっとりとした視線。対照的なくらいの笑顔で受け取ってやる。
『君面白いねー! そりゃ紘のお気に入りになるよ』
電話の向こうの笑い声の中、そんなお褒めの言葉を頂いた。
『俺が言うのもなんだけど、仲良くしてやって。そいつ――』
「……はい、それじゃ代わりますね」
ひとことふたことの挨拶を交わし、携帯を返却する。ホッとしたような顔でそれを受け取り、私に背中を向けて、上司は電話を切った。
ゆっくりとこちらを振り返った彼に、舌を出してやる。
「あかりちゃん、本っ当、勘弁して」
「何がです?」
「女の子がなんてこと言うの、まったく」
「男の子なら言ってもいいと?」
「…………昨日のこと、まだ怒ってる?」
「怒ってるというよりは、気持ちがおさまらない感じです。どうすればいいのか、自分でもわかりません。まぁ、今のでちょっとは溜飲が下がりましたけど」
「……OK。じゃあ落としどころを提示してみようか」
「落としどころ?」
「今後、昨日みたいなことに協力してもらう場合にはちゃんと事前に相談する」
それは昨日も聞いた。何も言わずに続きを促す。
「それと、業務の一環として協力してもらうんだから、精神的負担を考慮して給料上乗せするよ。……あー、三万くらいでどう?」
「…………」
飛び出してきた意外な提案に思わず目をしばたたかせる。
「……足りない?」
私の反応に苦笑しながら、彼が問う。黙っていればいくらまで上がるんだろう、などという考えが頭をかすめる。
「いえ、十分です」
首を横に振ると、今度は安堵の表情で彼が笑う。
「じゃあ、悪いけど、改めてよろしくね」
「……はい」
差し出された手のひらに自分の手を合わせる。仕方ないな、とこちらも笑って。
なんだか、愛人契約でもしたようで複雑な気もするが、業務なら割り切るまでだ。
「…………」
いつもの笑顔に戻った上司を見つめながら。
私は先ほど『徹』から言われた最後の言葉を思い出していた。
『俺が言うのもなんだけど、仲良くしてやって。そいつ――友達少ないから』
#07 浮気調査
2014/10/04 00:41 □ 城ノ内探偵事務所
午後二時半。入り口のドアから聞こえてきたのは、女性の声だった。
「急にごめんなさいねぇ」
「いらっしゃいませ。わざわざご足労いただきありがとうございます」
仕事用の笑顔で応接スペースに誘導すると、すぐさま事務所に戻ってきた上司は、こちらに向かって大きく手招きする。
応接スペースは事務所の片隅を高めのパーティションで区切っただけのもの。小声ならともかく普通に話していれば向こうにもある程度は聞こえてしまう。
声を出すなと言われたので、とりあえず頷いて返答にする。
――あ、お茶出さなきゃ。
キッチンスペースへ向かおうとする私の腕を、慌てて上司が後ろから掴んだ。低い声が耳元で囁く。
「いい。いらないから」
「……? はい」
「それより早くこっち来て」
応接のほうが寒いからと、自席に置いていたストールを被せられ、珍しく笑顔のない上司に手を引かれる。
――なんだ? なんか焦ってる?
不思議に思いながら応接スペースに着くと、視線と顎で促され、脇に腰掛けた。
気付かれないよう、依頼人のほうを窺う。三十代後半のまだ見たことのない女性。
派手目の顔立ちだが、とても綺麗な人だった。大きく胸の開いた薄手のワンピースが今この場ではただ寒そうに見える。
これが、「招かれざる客」? 特にマナーに厳しそうにも見えない。
「藤井さん。早速ですが、こちらが報告書になります」
「見ていいかしら?」
「どうぞ」
静かに、彼女が封筒を手に取る。昨日、私が作った浮気調査報告書だった。調査対象者は藤井豊。ということは、この女性はその妻である藤井直美夫人なのだろう。
「…………」
食い入るように書類に目を通す夫人のその手が震えている。
「残念ですが、ご主人は同じ会社の女性とお付き合いをされているようです」
「そう、ですか」
書類を手から放すと、ポロポロと涙をこぼし始める藤井夫人。
哀れなその姿に、
――…………?
何故だろう。何か、違和感を覚える。
まるでひとつひとつの仕草や感情を大げさに演じているような、そんな印象。
「ありがとうございます。離婚の決心がつきました」
口元を押さえて、伏し目がちに。
それでいて、私の存在が気になるらしく、こちらにもちらちらと視線を寄こす。
「そうですか。これからの人生に幸多きことを祈っております。傷心のところ申し訳ございませんが、こちらが請求書になります」
「じゃあ、また持ってきます」
「いえ、振込用紙を付けておりますのでわざわざお越しいただかなくても結構ですよ。山崎町のご自宅からここへ来るのは大変でしょう?」
営業用の微笑みを絶やさずに、あくまで事務的に対応する上司にも違和感があった。
やっぱりものすごく嫌がっている。まぁ、その理由はなんとなくわかってきた。
ただ黙って隣にいるだけでいい。それはつまり、私の存在自体が牽制になることを期待しての命令だ。残念ながらそこまでの効果はなかったらしいけれど。
命令通り何も言わず、上司をちらりと流し見る。そろそろ笑顔を保つのが限界に来ている。
「いいえ。城ノ内さん、あなたに会いたいんです」
――一瞬。
聞きたくないセリフで思いっきり険しくなった上司の顔を、私はきっと一生忘れない。
「からかわないでください」
笑顔に戻り、今のセリフを冗談にしようと必死の抵抗を試みるけれど、
「本気ですよ」
そんな努力が通じるはずもなく、彼女は上目遣いで、机の上の彼の手を撫でた。
「――っ」
――なんだこの攻防。
牽制どころか、蚊帳の外からひとり見物してる状態じゃないか。
いや、実は牽制になってるのか? 私がここにいなければ、強引に押し倒されてたりするんだろうか。
助け船を出してやりたい気もするが、しゃべるなと言われているし、そもそも事を荒立てずにどうやって助ければいいのかもわからない。なにせ支払い前のお客様だ。機嫌を損ねるのは避けたい。
どうしようかと考えを巡らせていると、唐突に、――彼の顔から表情が消えた。
――あ、切れた。
何故かそんな風に直感した。キャパシティオーバーだ。今確かに、彼は何かを振り切った。
何かが起こる予感に、息を呑む。
上司は一度目を閉じると、またゆっくりとまぶたを開いた。
「――あかり、下がってなさい」
その声は限りなく優しく、そして限りなく冷たく響く。
いつもと違う呼び方に、思わずビクッとしてしまう。
動揺を押し殺して、とにかく黙ったまま一礼し、応接スペースを後にした。
張り詰めていたのか、パーティションの裏側に立った瞬間、脱力感に襲われる。
カーディガンはもちろん、その上からストールまで羽織っていたのに、思った以上に手足が冷えている。藤井夫人はあの格好でなんであんなに平気な顔でいられるんだと不思議に思うくらいに。
考えてみれば、茶を出さなかったのは儀礼的な歓迎の意を表さないこと以外に、暖を取らせないためでもあったのかもしれない。
「…………」
いきなり解放されたのは何故だったんだろう。結局役に立たないことがわかってお役御免になったということか。なんだか申し訳ない気分になる。
それにしてもどうするつもりだろう。まさか黙って襲われる覚悟をしたわけじゃないだろうけど。
思わず、パーティションの向こうに耳を澄ます。
おそらく私の足音が聞こえなくなったのを確認したのだろう。上司が沈黙を破る。
『失礼。不倫のお誘いは光栄ですが、身重の妻の前でしたい話ではありませんので』
壁越しで多少くぐもってはいたものの、その言葉ははっきりと私の耳に届いた。
「……………」
いつもの笑顔が目に浮かぶような柔らかな声。優しい優しいその口調で、
――今、なんて言った?
『えっ!? 奥様なんですか!? 嘘、だって、この前は居なかったのに』
信じられない、というように彼女が声を上げる。
安心してください、ここにも信じられない人間がひとりいますから。
『数日前から手伝ってもらってるんです。安定期に入ったので』
流暢に、どこまでも流暢に、一片の淀みもなく彼は答える。
『とは言え、申し訳ありません。あまり長くはひとりにしておけないんです。妻はすぐに無理をするので』
『……え、えぇ、じゃあ、私おいとましますわ』
呆然とした声と、双方が立ち上がる衣擦れの音。
『お支払いは振込で結構ですから』
『え、あぁ、そうね。そうします』
『ありがとうございました。気を付けてお帰りください』
笑顔で彼女を見送り事務所に戻ってきた上司は、パーティションの影で固まっている私に気が付いた。
「……あー、あかりちゃん?」
「はい」
「もしかして、聞いちゃった?」
「はい」
「…………ごめんなさい」
「~~~~っ、全部っ、この服渡したときからそのつもりだったんでしょう!」
サイズの合っていない服を着て、さらにストールまで羽織っていれば、実際の体型なんてわからない。つまり、この件は最初から全部計画済みだったのだ。
顔が真っ赤なのが自分でわかる。握りしめた拳は震えが止まらなかった。
涙を堪えた抗議の表情にバツの悪そうな顔をして、
「うん、まぁ」
目をそらして頬を掻いた上司は、短く肯定の言葉を口にした。
「っ、言ってくれれば、協力くらいしたのに……!」
「いや、だって、内容が内容だし、あかりちゃん嫌がるかなって」
「どっちみち嫌なことするなら教えてほしいです!!」
「ごめんって。これからはちゃんと相談するから」
「当たり前……って、ちょっと待って。これからもあるんですか?」
「多分。たまに居るんだよね、ああいうお客さん」
「……付き合ってあげたらいいじゃないですか。離婚するって言ってたし、藤井さん美人でしたよ」
腹いせのように嫌みを言ってやると、うんざりした表情で彼は答えた。
「旦那の浮気で傷心の私に優しくしてーってだけならまだいいんだけどね。ああいうタイプは自分の浮気を棚に上げてる場合がほとんどだよ。あの人は旦那の他に三人いるんだけどね」
――世の中って、こんなに狂ってるのか。
唖然とする私に、上司が苦笑する。
「お茶にしようか。僕が淹れるから」
「あ、今日は私がやります。この部屋寒いので一旦出たいです」
じゃあ一緒にやろっか、と連れだってキッチンスペースへ移動した。
上司が紅茶を淹れている間、茶菓子を用意する。
戸棚の一番端っこに焼き菓子の詰め合わせの箱がある。この前、林さんからもらったものだ。
クッキーとパウンドケーキをいくつか取り出して皿に載せたその時。
「…………あれ?」
「どうかした? あかりちゃん」
目に入ったのは、このキッチンスペースにあるエアコンの操作パネル。
「事務所の操作パネルって――」
それは入り口ドアのすぐ隣にある。毎日目には入っているけれど、触れたのは今日が初めてだった。
だから、違和感を覚えても、そんなものかと思っていた。
「――前からテプラって貼ってありましたっけ?」
「あかりちゃんさ、結婚願望ないって言ってたけど、」
笑ったまま、彼は私の質問をさらりと聞き流す。陶器のポットにたった今沸いたばかりの熱湯を注ぎながら。
「まさか、」
事務所へのドアを開け、入り口へ走る。目的はもちろん、操作パネル。
それに貼られた『真新しい』テプラに爪を立てる。
考えてみればおかしいじゃないか。
それほど広くもないこの事務所。ひとつしかない操作パネルに、どうして『事務所』なんて貼る必要があったのか――
ベリッと音を立て、剥がれたそれの下に現れた文字は――『集中管理中』。
「─!」
集中管理機能のあるエアコンの『子機』に表示される文字。
これが表示されているということはおそらくキッチンスペースにあるものが親機だ。
反応が悪いんじゃない。温度設定はここでは変更出来ないようにしてあったんだ――
計画の始まりは、服を渡した時じゃない。本当はもう一段階前、エアコンの電源を入れた時から、既に始まっていたのだ。
「もし結婚するときは気をつけて。――結構騙されやすいから」
かくして私は、この事務所に所属して二回目のヒステリーを起こすことになる。